SSブログ
うつが教えてくれたもの ブログトップ
前の10件 | -

感情汚染 [うつが教えてくれたもの]

前回の記事とも少し関連しますが、鬱の数ある嫌なことの1つに、好きだったはずのことが思い出すのも嫌なことに容易に転化してしまうしまうことがあります。

鬱の状態はただでさえ、幸せや楽しみを感じる感情が鈍磨し、全て悪い方の感情を呼び起こすフィルター越しに世界と向き合っている状態なのですが、それに加えて(それだからこそかな)、少しの失敗や心理的な抵抗が、対象への想いに悪感情を結びつけてしまうことがあるんですよね。

悪感情に汚染される、とでも言えばいいでしょうか。

普通、好きなことに思い巡らせたり向き合ったりした時には、好ましい感情や幸福感が湧いてきたり、楽しい気分になったり、パワーがみなぎってきたり、と気分が上昇するような反応が起きると思いますが、この逆に、嫌な記憶や感情が呼び覚まされたり、恥ずかしさが湧いてきたり、頭をかきむしりたくなる焦燥感に襲われたり、気分を陰鬱にする反応に繋がってしまうようになるという…。
負の感情に連なる関連連想が呼び覚まされてしまうわけです。

これは辛いですよ~。

そうはなったとしても、好きなものはやっぱり好きなわけです。
でも、好きなはずのことを考えたり触れたりすると途端に感情が掻き乱されて調子も悪くなってくる。
結果として、好きだったはずのことを心の底に封印して遠ざけていってしまう…

そうやって、いま尚なかなか触れられない「好きなもの」がどれだけ生まれてきたことか(T^T)

特に症状が行くところまで行ったこの数年間の反転っぷりはほんと、酷いものです。

自分の最悪の時期の苦しい記憶ともつれあってしまっていて、どうしてもそれを引っ張り出してしまうんですよね…。

それだけならまだしも、更にきついのはほんのちょっとしたきっかけで、それがいまの好ましいものと結び付いて、負の感情の汚染を広げてしまうこと。

鬱は負の感情と親和性が高いので、からだが鬱側にシフトしている時はそうやって汚染が進んでいく危険と常に隣り合わせだったりします(T^T)


ここ最近もやばかった。

ほんのちょっとした出来事から、危うくいま一番楽しみにしているものが、向き合うことすら嫌になるものに反転してしまうところでした。

まあ、これは好ましい方の感情の記憶がより広範囲で強かったので、危ういところで汚染は免れ得た感じで良かったですが。

いったん汚染が広がってしまうと、それを除去するのはほんと、掛け値なしに何百倍もの時間と労力が必要になってくるんですよね(苦笑)

いまではだいぶマシにはなりましたが、あれだけ好きだったPerfumeやスイバケも、ある時期の楽曲や映像はまだ抵抗あるもんなあ…(T^T)

ほんとうに、やっかい極まりありません。


好きなものとはこころの安定剤でも幸福を感じる源でも頑張るための原動力でもあるわけで、それをどんどん喪っていくというのは生きる力を奪われていくにひとしいと言っても過言でもなかったりしますからね。

鬱の人が死んだように生きるはめになってしまう数多くの原因の1つには、このようなメカニズムも強く関係しているかもしれません。


好きなことをきちんと好きだと感じられるーー

そんな当たり前のことがいかにありがたいものであるか、それをいま、噛み締めています。


鬱にならなければこんなこと、きっと気付きもしなかったなあ…

ほんと、病気はきちんと向き合えば、色々なことを教えてくれるもんですねw

せっかく機会を与えられたので、これからも一つ一つ、きちんと向き合って対話してみようと思います☆

こころの壁 [うつが教えてくれたもの]

最近こころのキャパシティが増えつつあるおかげか、ずっと長い間、自分の中の大きな壁として居座っていた問題に、ようやく向き合えつつあります。

なんというか、これを解決しないことには次のステップに進めないという、こころの現ステージのラスボスのような問題。

いまを締めくくり次へ向かうための、みそぎのようなものですな。

まあ、内容はありふれた対人関係の縺れなんですが、一番身近な存在かつ一番躁鬱が酷いときのものだったせいで、怒り不安恐怖怯え苦しさ…といった悪感情の色付けが凄いものになっているんですよね。

おかげで、それについて考えたり向き合おうとしたりするだけで、調子が悪くなったり悪い想像が止まらなくなったりエネルギーが奪われたり不安や恐怖がどんどん襲ってきて叫びだしたくなったり…と、鬱的な意識を呼び覚ましてもう散々な状態になるわけです(T^T)

今まで何度、向き合おうとはしてみたものの、結局苦しくなって先送りとか繰り返してきたことか…。

その時は今はまだ取り組むべき時期じゃないんだとかなんとか自分を誤魔化してはきましたが、ずっとこころの片隅に突き刺さったままじくじく膿み続けていたわけで、その事実がまたこころを痛め付けたりするからたちが悪い><

なんというか、記憶の中のささいなことを取り出しては、あれはきっと蔑んでいたにに違いないとかきっと今でも変わってないんだろうとか、自分の中の恐怖心をより強く呼び覚ますような想像が、ことあるごとに離れなくなったりするんですよね。

しかも、その苦い記憶をほんの少しでも連想するような出来事が現実であったなら、たちまち浮かび上がってこころを支配していく始末。
あまつさえ、そのいま起こったことすらその記憶に結びつけて、更に悪い想像を働かせていく…という、いまいる現実にも過去にも破滅的なサイクルが働いていくわけです。

いわば、自分のなかで悪いネタをせっせと探しては、自分の中にある問題を更にたち悪く強大なものにするためにせっせとこねくり回しているような状態ですね。

昔はそれに完全に飲み込まれて支配されてしまっていたので、冷静に分析などできずこんなことは分からなかったのですが、少しメタ的な意識が育ってきた今では、人間の意識や判断が如何に過去から培ってきた「感情を色付けした記憶」に強力に左右されているかが実感としてよく分かります。

どうも意識が何か認識したり判断したりするより先に、好悪の感情がまとわりついた色眼鏡を通して物事を見てしまっているみたいなんですよね。

意識に上がってきた段階でもう好悪の情報が付加されているので、必然的に偏った情報を前提として意識や判断もせざるをえず、しかもそれが偏っていることは入力情報のみで判断している限り、意識は検証することができない、という…。

普通の人でも、例えばちょっと嫌とか苦手意識がある人が、何かいいことを言ったり親切なことをしてくれたりしても、それを素直に受け入れることができず、なにか裏があると穿ってしまったり、近づいてくるだけで反射的に胸に何とも言えない不快感が沸いてきたり、冷静に対応できなくなったりすることはありますが、この反応こそまさにそれ。

逆にあばたもえくぼと言うように、好意的な対象に対しては、それがフラットなら少しどうかと思うようなことでも、全て好意的に捉えて良い方の側面を見ようとするーー

人間関係に限らず、どんな物事に対しても人間の判断は一事が万事こういう仕組みが動いているみたいなんです。

つまり、物事は多面的で、視点を変えれば良くも悪くも見える(もちろんそれ以外の側面もたくさんある)ものですが、ファーストインパクトで与えられる好悪のフィルターを通した情報で、良い面を見るか悪い側面を見るかが無意識的に決まってしまっているってこと。

感情の力は原初的で強いので、意識はどうしてもその影響を取り除くことはできないんですね。

そして、鬱はこの仕組みが暴走して、悪い側面のみを見るフィルターが付いた色眼鏡をかけて全ての出来事を捉えている状態。

だから普通の人だったら「どうしてそんな悲観的な捉え方をするの?」と思えるような悪い解釈を常にして、そこから生まれる不安や恐怖に苦しみ続けることになるんです。
#ちなみに躁はこの逆で、全て良い側面のみで捉える色眼鏡を常にかけ続けている状態です。
#これだけ聞くと凄く良いように感じるかもしれませんが、これはこれで問題が……

このことが分からないと、普通の人にはなぜ鬱の人がそんな風な捉え方や考え方をしているのかが理解できないし、鬱の人もなぜ自分がそんな風に考えてしまうのかが理解できないで苦しむことになります。
#そう、自分自身の状態に一番戸惑って「こんなはずじゃない」と思っているのは
#何よりも鬱の人自身だったりするんです。

ここから、自分を責めてしまったり、相手の反応にいらいらしたり、どう対応したら良いか分からないといったことも生まれるんだと思うんですよねー。

鬱は「本人のこころの弱さのせいで、意思や考え方でなんとかなる」という風に、こころのどこかで普通の思考ができる人は思いがちですが(そして本人の中の「普通の」意識は思いがちですが)、意思や考え方以前の段階の仕組みが既に暴走してしまっているので、こう考えても百害あって一利なしで、追い詰めるだけに終わります。

その状態をなんとかしたいと思うのなら、むしろその前の「悪い側面を捉えるフィルター」に働きかけて動きを鈍くするか(薬物療法)、そのフィルターを呼び出す大元となる記憶や呼び出される記憶にまとわりついた感情を別のものに変化させるか(心理療法)、その状態に襲われている自分に対して自分の中の「普通の意識」が下している認識が改まるか(内観による意識の変化)しないとだめなわけです。

最後がちょっと分かりづらいですが、自分の中に生まれる苦しみはたいてい、自分の中にある「普通の意識」が生み出しているものなので、その意識が自分の状態をどう理解し捉えるかで、苦しみの量を減らし別の折り合い方ができるようになります。

仕組み自体は人間であれば例外なく普通に備わった仕組みのため、薬物療法や心理療法だけでは、また別の状況がこの仕組みを動かした時、また暴走状態になる可能性は常にあります。
鬱が再発のリスクが常にあると言われるのは、まさにこのためだと思うんですよね。

なので、鬱を根本的に克服するためには、どうあっても「鬱の状態に陥った時の自分」に対する自分自身の意識が変わる必要があるのかな、と。

それが変わるだけで、意識は大分楽になるし、色々と考えたりする余裕も生まれてきますしね。

そしてその余裕があればこそ、自分の「鬱の状態」自体も軽減されていくループができるのだと思います。

なんか思わず熱くなって長々と語ってしまいましたが(ここにも例の感情判断の仕組みが働いていますよね^^;)、まあ、こういう側面から捉えることもできるんだということで、なにかの参考になれば幸いです。

ここを更に掘り下げたら、鬱に苦しむ人を苦しみから救う道もなにかしらか見えてくるかな?

このことは、少しずつでも深めていってみようと思います。

自分のこころのメトロノーム [うつが教えてくれたもの]

からだが冬を抜けて春に突入しているせいか、最近不安定気味で、少し躁の意識が出ていました。

意識が暴走気味にスピードアップして、からだの疲労をものともせず活動的になる、そんな感じ。

昔はその状態の意識こそ本当の自分だと思っていたりもしていたことがありましたが、今はある意味鬱以上に警戒すべき状態だと実感しています。

そのお陰か、こういう暴走気味の意識の時に、それに飲み込まれずに冷静に内観できる、メタ的な意識が育ってきたような気がします。

ここ数日、ちょっと歯止めが効きづらくなってきた感じでどうするべと思っていたんですが、まさにこの意識こそ、躁化している頭の中にある冷静なメタ的な自意識なんだと思います。

昔は躁である状態のもたらす気持ち良さに完全に飲み込まれて、その状態が異常であるかを相対化して観てみることなど思いもよりませんでしたからね。
思えばそれでかなり方々にご迷惑をおかけしたものです(苦笑)

そんなこんなで躁的な意識が強くなりそうなのをどうにかしたいなと思っていたお陰か、昼間、ビルの合間から見える青空に白く重層な雲が悠然と流れていくのを眺めながら歩いていたら、意識が平常のスピードにクロックダウンできたような感じがします^^

やっぱり空の表情を眺めたり雲の動きをゆったり眺めているのは好きですねー。
人間とは違う自然の時間の流れを感じて、こころが落ち着いてきます。

人間の時間はどんどんスピードアップしていて、ともすれば時間に使われがちで、こころにもからだにもリズムを無視した過負荷をかけっぱなしになっていますからね。
たまにはこういう自然本来のリズムで刻まれる時間にたゆたうのが、こころやからだに本来の生命のリズムを取り戻すのにいいのかもしれません。

私にとっては昔から空や雲(夜空よりは昼の空)、そして林が一番好きで落ち着く対象なんですが、人によってこれが海だったり山だったり川だったり花畑や花壇だったり草原だったり、それぞれあるんだと思います。
それも風景だったり音だったり、匂いや感触だったり、からだに浸透するリズムは千差万別。

おそらくは、自分の幼少の頃の安心に包まれた、心地好い落ち着いた時間の記憶と結び付いたものが、こころの源体験として自分の中のメトロノームになっているのではないかなと考えています。

もし、いま人間の時間で少し疲弊しているなと思う人がいたら、自分の中の生命のリズムを呼び覚ます自然のメトロノームを探して、その時間に浸ってみるといいかもしれません。
病気の状態まで陥る前に、ね☆


#本当は今回は躁がなぜ危険なのか書いていこうと思っていたのですが、書いているうちになんか違う流れになったので、そのテーマはまた今度ということで^^;

自分のこころのメトロノーム [うつが教えてくれたもの]

からだが冬を抜けて春に突入しているせいか、最近不安定気味で、少し躁の意識が出ていました。

意識が暴走気味にスピードアップして、からだの疲労をものともせず活動的になる、そんな感じ。

昔はその状態の意識こそ本当の自分だと思っていたりもしていたことがありましたが、今はある意味鬱以上に警戒すべき状態だと実感しています。

そのお陰か、こういう暴走気味の意識の時に、それに飲み込まれずに冷静に内観できる、メタ的な意識が育ってきたような気がします。

ここ数日、ちょっと歯止めが効きづらくなってきた感じでどうするべと思っていたんですが、まさにこの意識こそ、躁化している頭の中にある冷静なメタ的な自意識なんだと思います。

昔は躁である状態のもたらす気持ち良さに完全に飲み込まれて、その状態が異常であるかを相対化して観てみることなど思いもよりませんでしたからね。
思えばそれでかなり方々にご迷惑をおかけしたものです(苦笑)

そんなこんなで躁的な意識が強くなりそうなのをどうにかしたいなと思っていたお陰か、昼間、ビルの合間から見える青空に白く重層な雲が悠然と流れていくのを眺めながら歩いていたら、意識が平常のスピードにクロックダウンできたような感じがします^^

やっぱり空の表情を眺めたり雲の動きをゆったり眺めているのは好きですねー。
人間とは違う自然の時間の流れを感じて、こころが落ち着いてきます。

人間の時間はどんどんスピードアップしていて、ともすれば時間に使われがちで、こころにもからだにもリズムを無視した過負荷をかけっぱなしになっていますからね。
たまにはこういう自然本来のリズムで刻まれる時間にたゆたうのが、こころやからだに本来の生命のリズムを取り戻すのにいいのかもしれません。

私にとっては昔から空や雲(夜空よりは昼の空)、そして林が一番好きで落ち着く対象なんですが、人によってこれが海だったり山だったり川だったり花畑や花壇だったり草原だったり、それぞれあるんだと思います。
それも風景だったり音だったり、匂いや感触だったり、からだに浸透するリズムは千差万別。

おそらくは、自分の幼少の頃の安心に包まれた、心地好い落ち着いた時間の記憶と結び付いたものが、こころの源体験として自分の中のメトロノームになっているのではないかなと考えています。

もし、いま人間の時間で少し疲弊しているなと思う人がいたら、自分の中の生命のリズムを呼び覚ます自然のメトロノームを探して、その時間に浸ってみるといいかもしれません。
病気の状態まで陥る前に、ね☆


#本当は今回は躁がなぜ危険なのか書いていこうと思っていたのですが、書いているうちになんか違う流れになったので、そのテーマはまた今度ということで^^;

灰色の時間 [うつが教えてくれたもの]

ここ2週間近く、ずっと左の頬が腫れています。

最初は風邪から歯茎が腫れて、それが頬までパンパンにし、次に埋没してた親知らずを抜いて今度は下顎かあたりが腫れ…というダブルパンチT^T

そのせいで、今回の沈む時期は長引いていたりします(涙)

正常な人でもそうですが、身体の不調はこころを陰鬱にしていきますよね。
その不調に意識が集中して、何をしてもそれが離れず、まともな思考ができなくなる。

これは感情が先に痛みやしんどさや苦しさにフォーカスして、それをベースに思考を引っ張るからなのですが、鬱的な心理状態にいるときも同じ仕組みが動いているようなんですよね。

思考より前にしんどさや不安の感情がまず動き、それが思考を引っ張って否定的な連想を引き出し、それがますます感情を増幅して更に破滅的な連想をもたらし…という悪循環。

自分の状態をよくよく内観してみると、そうやって苦しみや虚無感や絶望が育っていくのがよく分かります。

思考の主導権が意識から情動に完全に移ってしまっている状態なんですね。

今回は、意識側に軸足を置く私という自意識が、そんな時何を感じているか、それをちょっとことばにしてみましたので紹介してみます。

--------

思考が足踏みをして逃げていく

灰色の霧に囚われた時間


何を考えても

何を思っても

言葉は全然深まらない


こころがすぐ

こんなことを考えても意味ないと

虚しい想いを誘導する


胸のあたりに吹き溜まる

もやもやとした息苦しさが

思考の未来を塗り潰す


知らず

思考を苦しさで支配する


こころを蝕む息苦しさは

瞬く間に全てを負の引力で包み込み

自分の行動や記憶すら

恥辱に満ちた視点で塗り替える


未来を暗闇に閉ざしては

自分のやっていることは意味はないのだと

こころを虚しさに堕とし込む

こころの活力を奪っていく


何も生み出さない

何も生まれない

限りなく無為に過ぎ去る時間

限りなく意志の希薄な時間…


--------


感情が意識を置き去りにして

思考の行方を規定する

こころの活力を低下させ

からだの活動を鈍くする


いわば不安がからだの主導権を握っている

ーーそんな時間


この時間

意識は自分の主人でない

感情の表すからだの苦しい状態を

ただなぞるだけの無力な傍観者


意識は能動的に働けず

それ故苦しみも果てはない


意識が感情とのバランスを

取り戻せない限り救いはない


だがしかしーー


意識を無力な傍観者に落とし込む

この時間を産み出す感情が

本当は何から自分を守りたくて生まれたのか


ーー意識は知らないままでいる



冬の入りに [うつが教えてくれたもの]

このところ、長らく秋を満喫していたのですが、とうとうからだが冬を迎えたようです。

この時季はなんだか分からない倦怠感としんどさと虚無感が意識に常駐し、疲れやすく、人と会ったり能動的に行動するのが辛くなります。

思考もまとまりづらく表現力も落ちるので、この時季に何かを進めるのはなかなか厳しいものがありますが、その分じっくり力を蓄えて、深いところで何かを熟成している感じはします。

うつの状態に飲み込まれるとそれどころではなくなりますが、その手前で少しスピードを落として、自分の中を内観しつつゆったりケアしていければ、この時季はいいかもしれません。

ということで、今回は昔のノートを引っ張り出して、うつの最中の苦しみを綴ったことばをいくつか紹介してみます。

人の意識は苦しい最中のことをすぐ忘れてしまうので、たまにはこうやって、自分の中に確かにあった感覚を振り返ってみるのも重要なんでしょうね。

自分の中の季節の変動も、確かに存在しているこの世界のことを忘れては駄目だと言っているような気がします。

からだがこの世界に共鳴しやすい冬だからこそ、改めて苦しみの中で生まれることばに耳を澄ませてみるのも悪くない、そう思ったりもするのです。


--------
限りなく意思というものが希薄な思考

怠惰の膜に包まれた意識

エネルギーが全て足元から抜けていく

このまま苦しみの中にキエテしまう意志ならば

存在する意味はどこにあるのだろう…

--------
思考の空白
考えることの拡散

極力何も感じないよう
僕は思考を止めている

--------
なんだかわからない

でもつらい…

頭を占めるのは辛いという意識のみ

何にも考えたくなくて

何も感じたくなくて

結局何も行動しないことを選ぶ

--------
焦りがとめどもなく増大していく

胸をかきむしりたくなる焦燥感

実際かきむしっても消えはしない

当然だ

僕はなにもしていない

なにも先へ進めてない

進む先さえ見えはしない……

完全主義について本気出して考えてみた [うつが教えてくれたもの]

今日は、自分の中にある完璧主義について解体してみたいと思います。

うつになりやすい性質として良く挙げられる完璧主義と生真面目さですが、これって本人からすると得てしてあんまり実感がなかったりするんですよねぇ。
なんというか、自分では普通にやらなければいけないことをやっているだけの意識なのに、回りからみるとそれが真面目さや完璧主義に見えているって感じで。

自分から言わせれば、自分が真面目なのではなく、回りが不真面目すぎるんだ、と思うんですな。

だから、まじめだねぇ、とか言われるといつもそうか?と心に反論の声があがります。むしろお前らこそやらなきゃいけないことを全然やってないんじゃないか、ってw

…まあ、こう思っていること自体、既にまじめな証拠なんですがね^^;

ともかく、本人の実感なんて得てしてそんなもんだったりするんです。

人はみんな自分基準ですからねぇ…感覚の違いはなかなか気付かない^^;
(これ、他の色んなことも同様ですね)


だから今まで、自分の中にあるこの性質について突き詰めて考えてみたことなどなかったのですが、なんか今朝料理をしていたら、ふと頭に色々湧いてきたので、いい機会だし思索を深めてみようと思います。


さて、完璧主義。
言い換えるとこだわりが強い傾向、といったところでしょうか。
これは物事を深く突き詰める性質のある人に備わりやすい傾向ではないかと思うのですが、本来は良くないということは全くなく、仕事やら作品やら成果物やら学問やらの質を追究しようと思うと大変な武器となるものです。

好奇心が新たな境地を切り開いていくものだとしたら、これは目の前にある素材を極限まで研ぎ澄まして深めていくものと言えると思います。
どちらも、人間の知性にとっては大変重要なもの。
これらが備わっているから人間はここまで文明を発達させることができたと言っても過言ではないかもしれません。

ただ、物事にはすべからく裏表があるように、この傾向にも当然いい側面と悪い側面が存在します。
ある目的や目標物に向かってこの傾向が働いているときは良いのですが、日常生活のあらゆる場面やコミュニケーションにまで広がってしまうと、とたんに困ったことになります。

完璧主義ということばのイメージから連想される良くない印象は、この困ったことからくるのだと思います。

私自身、覚えがあるのは、ブログ記事やSNS投稿をはじめとして露出する場で気軽に発言できなくなる、少しでも迷いがあって自信が持てないと意見を言ったり発表することができなくなる、自分のこだわりが強すぎて他人の違いが許容できない(それ以前に他人は違うのだという意識が働かない)、自分を曲げられない、他人に弱味を見せられない、常にいいところのみを見せようとしてしまう、ささいなところにこだわって物事が完遂できなくなる…などなど。
(私にはありませんが度をすぎた潔癖性や脅迫神経症なども、気になったらとことんまで突き詰めなければ気が済まないという意味でこの傾向の1バリエーションと言えるかもしれません)

まあ要するに、完璧な自分を演じてしまう(他人の目に映る自分に穴がないよう気を使う)方向に、完璧主義が発現していたわけです^^;


自分の実感からして、こだわりや完璧主義には視点が内向きのもの(自分に向いたもの)と外向きのもの(対象に向いたもの)があり、外に向いた場合は物事を極める方向に働きやすく、内に向いた場合は自分を苦しめる方向に働きやすいような気がします。

というのも、こだわりの種類を正の方向に作用するこだわりと、負の方向に作用するこだわりに大きく分けた場合、内向きの方がその性質上、より負の方向に作用するこだわりになる傾向が強いように感じるんですよ。

ちなみにここで言う正の方向/負の方向とは、自分の感性で美や調和を強く感じ、それを極める方向でこだわりが出るか、意識が恥や汚点や不調和に向いて、それを押し隠す方向でこだわりがでるかの違いになります。

感情のレベルで見てみると、前者は自分にとっての心地よさがこだわりのベースになって、それを満たすために(多くは意識的に)働きかけるのに対し、後者は不安がベースになって、その不安を回避するよう(多くは無意識的に)働きかけているような感じ。

前者は創造的に何かを生み出しますが、後者は不安を生み出す源が変わらない限り際限なく同じ場所で足踏みを続けます。

んで、自分に向いて完璧主義が発現する場合、その多くが自分の中にある不安から無意識に生み出されてくるものなんだろうと思います。

自分に向いて正の方向に美や調和を求めていくと、自分の精神を高めようという精神修養や求道者的な完璧主義が発現していくと思うのですが、これは己の中の不安と客観的に距離を置いて付き合えるようになっていないと無理で、そうでないと先に挙げたように自分を傷付けないように表面を取り繕う方向に向いてしまうのが人間の性なんだろうと思うのです。

少なくとも自分の場合、自己肯定感が育っておらず、自分の心が傷付くことや失敗することに対して強い不安や恐怖が根底には常にあるので、それを避けるために優等生的な仮面を付けて傷付く可能性を先回りして潰し、外に見せる自分をコントロールしてきた事実は、間違いなくあります(苦笑)

そして、いつからこんなだったかなぁ…と思ってみたのですが、記憶にある限り昔からこの傾向はあったので、子どもの頃から着々と完璧主義の種を育てていたのでしょう。

それに気付いて(いや、常にこころの隅ではそのことは分かっていましたが、きちんと向き合わず目を逸らしていたと言うのが正しいところかな?) もっと早く不安とうまく付き合う術を見つけていれば、病気にもならなかったかもしれません。

まあ、病気になったからこそ逆にそのことに気付けたわけで、私にとっては通らなければならない道だったのだとは思いますが^^;

そうでなければどこまでもこの不安感に付きまとわれて人生を送っていたんでしょうね。

ちなみに、成長してくる中できちんと自己肯定感が育っている人は、もともと不安が強い傾向がある物事を深く突き詰める性質がある人だとしても、その不安に支配されることはないようです。
逆に、他の性質を持つ人でも、自己肯定感が育っていないと不安に支配されやすくはなるみたい。


この世の中、そもそも凡てにおいて完璧なものなど存在せず、それぞれの不完全さを補い合いながら支えあっているのが自然の状態なので、日常全てのレベルで常に外界に対して完璧主義で気を張っていたら、そりゃあ消耗するのは当たり前ですよね。

ほどほどで妥協して緩むというバランスの取り方が、少なくとも生活のレベルでは必要なのは確かです。
(ものづくりや芸術、創作などに向かうときは逆に正の方向に働くこだわりからくる完璧主義は解放した方がいいですけどw まあ、負の方向に飲み込まれず、時と場所を認識して正方向に能動的に使えるようになれってことですね)

加えて、不安が強い人は気を張ることが常態になって、ただでさえからだが緊張から緩みにくいみたいなので、このことを自覚しないとすぐバランスが崩れてうつという病気に近づいていくのは、なんか非常に納得できます。

同じような性質がある人は同意してもらえると思いますが、こころから楽しんだりリラックスしたりするのが非常に苦手ですからねー。
緊張からきちんと緩めないってことは自律神経系も乱れがちになるってことなので、そりゃ、病気のリスクはかなり増すわな、と(苦笑)


そんなこんななので、私と同じような自覚のある人は、からだを緊張から緩める術を意識して色々学んでいくと、ちょっと幸せになれるかもしれません。
(自分の中にある不安を生み出す素地に向き合うのは、かなり苦しいので万人にはお勧めしませんw 自分で言うのもなんですが、世の中こんな突き詰めずに、適当なところでうっちゃって別のことでバランスを取りつつ見ないようにして生きる方がよっぽど楽に幸せに生きられます^^; でも、物事の根本を突き詰める求道者的性質がある人は逆にここに向き合わないことには乗り越えられず安息は得られないので、そういう人には自分の不安の根本にきちんと向き合う道が避けられないかもしれません)


まあ、こうつらつら考えていくと、いまうつにかかる人が増えているのって、ストレスを生みやすい社会だってのももちろんありますが、それと同時に自己肯定感が育ちきっていない不安が強い人が増えているってのもなんか非常にあり得そうな気がします。

だとしたらうつを根本的に減らしていくには、いかに不安に支配されないように自己肯定感をはじめとした自分の素地を育てていくかってところにフォーカスすることも必要ということなのかもしれません。

なんかいま、自分で凄く得心したのですが、私のこころの羅針盤が指し示す先は、きっとそのあたりにあるんだろうな。


ということで、やたら長々と書いてしまいましたが(ついでな書き終わるまでに6時間ぐらいかかってますが^^;)、なんか、色々もやもや頭の中に漂っていたことが少しことばにできたような気がします。

読んでいる人にとってはどう映ったかは分かりませんが(いや、そもそもここまで読んでくれた人がいるかも分かりませんが^^;)、私にとっては確実に大きな一歩です♪

こころの羅針盤 [うつが教えてくれたもの]

突然ですが、最近、めっきり涙もろくなりました。

いや、昔から涙腺は緩い方ではあったのですが、最近はそれに輪をかけたというか、ほんとヤバいぐらいです^^;

ドラマやアニメを観ていたり、小説を読んでいたり、時には人と話している時にすら、ついうるっときてしまうことがよくあります。

なんつーか、やたら感動しやすくなってるような、そんな感じw

まあ、絶望の毎日にあって泣くことすらできなくなっていた頃を思えばずいぶん人間になったなあ、という感じがするのでいいのですがw
むしろ、そういう体験があったからこその反動みたいなものもあるのかな?f^^;


昔はなんか、涙を流しているところを見られるのがとても恥ずかしく感じたりして、涙腺が緩むとこころを逃がしてそれ以上感じないようにしてることもよくありました。
いまでもそう感じる部分は結構あるのですが、最近は話している最中とかは相手も反応に困るので思うので流石にあれとして(相手にとってはなんでここで?っていう些細なところで反応したりするんです^^;)、ドラマや小説などの物語に揺り動かされて流す涙はこらえることをせず、とても素直に流すようになった気がします。

おかげで5分とおかずぼろぼろ涙を流しながら読書や観賞をしてたりすることも。
(端から見たら相当アレげな光景だろうなと思います^^;)

まあね。自分のこころが感じたものを圧し殺さず素直に表現するって人間にとってとても大切なことだと思うしね。
それになんか、最近自分に流れる涙は、忘れてはいけない大切なことに目を向けるよう、魂が導いてくれているような気がしてならないんですよ。

いまの自分は意識のモードがよく切り替わり、こころの在りようも物事の捉え方も感じ方も、その時々で文字通り別人のように変わる状態にあります。
しかし、物事の捉え方も感じ方も全然違う状態の中にあっても、不思議とこの涙だけは共通してたりするんですよね。

なんつーか、自分でも自覚しないままいつの間にか流れ出していたりするので、表層的な意識(自分を感じているところ)を超えた、より深いところからこみあがってくる感覚に思えるんですわ。
しかも、この深いところにあるこころの琴線を刺激するのって、考えてみると決まってあるテーマが根底にあるように感じてます。

一言で言うのは難しいですが、人の暖かさや優しいこころに触れた時だとか、人のこころとこころが触れあった瞬間だとか、人と人、人と命、人ともの、人と世界が繋がりあった、そんな感覚を覚えた時と言えばいいでしょうか。
(更に言えば存在と存在がこころを介して繋がる時、がより正確なような気がします)

自分自身、繋がりの中から切り離され、意識がとことん孤独の底へと堕ちていく、そんな病を経てきたので、余計にそういったものが響いてくるのかもしれません。


まあでも、社会的な動物である人間、そして地球という1つの生命の物語の歴史の中に存在している人間として考えると、こういった繋がりに共鳴するこの感覚って悪いものではない…どころかとても大事なことだと思います。

意識やこころはたまに自分を偽り嘘をつき自分自身を見失わせますが、この涙だけはいつでも、見失ってはいけない大事なことを教えてくれ、進むべき道を改めて示してくれている。

そう、言うなれば私のこころの羅針盤みたいなものでしょうか。

今後、自分が選択していく人生においても、道に迷うことはまだまだただあるでしょうが、常にこの羅針盤を大切に、指し示す方向をしっかりと見つめて歩いていきたいと考えています。

紡いでいく物語にも、この羅針盤が示してくれているものをしっかり書き込んでいきたいな。

そういう物語を紡げるだけの感覚や技量、表現力や文章力もこれからもっともっと磨いていかなければなりません。

いままでの自分の技量じゃ、表現しきることもきちんと伝えきることも到底できそうにないですからねー。

そういう意味でも、もっともっと成熟せにゃな。

未熟を熟する道のりは、まだまだ始まったばかりです。

連なりの中の自分の役割 [うつが教えてくれたもの]

いまの自分の役割ってなんだろう。

たまに、そんなことを考えます。


この自然界に無駄なものなど何一つないように、人間、どんな人にだってその時その場所で為すべきことや役割があります。

自分のいまの年齢、体験、想い、気質、今まで出会った人、モノ、生命、思想、受け取ってきた様々なもの…

まだまだ不安も恐怖も欠点も未熟さもたくさんあります。
未来も見えないことだらけです。

でも、色々なものが連なっていまの自分を作り上げているように、この世界の明日へと続く無限に近い連なりの中に、還せるものはなんだろうか、還すべきものはなんだろうか、そう、意識するようになってきました。


人の体験や喜び、苦しみ、悩み、想いはみんな個人に閉じたものです。
でもそこから得た何かを連なりの中に還すならば、それは明日の世界を形作る糧となります。

そして、正も負もひっくるめて様々自分に連なってくるものの中から、何を得るか何を還していくかはその人自身の意識でいくらでも変わるんですよね。

この社会の中で生きる人間として、この世界の中に存在する生命として、わたしはいままでの人生から何を得て、次の連なりの中に何を還していけるだろう、何を還していきたいのだろう、それをこころに問うています。
たぶん、三十代半ばを過ぎて、社会を担う世代、次代を育てる親の世代となっている自分が、人生のいまの時期に与えられている役割って、本来そういうところにあるのではないかなあ、と。
生命の連なりの大きなの循環の中で見た時、この年齢ってそういう役割を果たすものではないかと、そう思うのです。


はじめの問いも、今まで、自分を中心に人それぞれの個人的な役割を考えてしまっていたのですが、なんかそれだと途中で行き詰まるというか苦しくなるというか、とにかくこうだと思ってもなんかこころに根付かなかったんです。

でも、実はもっと大きな循環の中での役割が本来あって、その上で自分が何をしていくか考えなければいけないんじゃないかって思うようになってから、なんかだいぶこころ穏やかに問いに向かえるようになった気がします。

たぶん、元々物事を深く難しく考える性質のあるわたしにとっては、これがこころにすっと落ちる1つの真実の形だったんでしょうね。


まあ、現実の自分は未熟で色々問題も多く、到底大きな役割を果たすには至っておらず、 個人的な役割にもまだたどり着いて すらいない半端者なのですが、こう思って一歩一歩先へ進んでいけば、いつかは年齢にふさわしく成長できるのではないかと思います。


昔は到底そうは思えなかったですが(いや、いまでも思えない意識の時は結構ありますが^^;)、 苦しみってありがたいですね。

自分の至らないところ、未熟な意識、周囲を取り巻く問題の構造や関係性の歪みなど…色々なものを見せてくれます。


いまのわたしにとっては、病気はわたしにこういう様々なことに気付かすために、魂がもたらしたものに思えてます。

病気の様々な経験を乗り越えなければ、苦しみの背景深くにあるものなんて考えもしなかったし、また見えもしなかった、それは紛れもない事実です。

だとしたら、ここで魂が気付かせてくれたことを糧にして自分を成熟させ、そこから少しでも未来の連なりの中へと還していくものを見つけることーーその先にこそ、自分の本当の役割が見えてくるのでしょう。

それにたどり着いた時にこそ、この病気を本当に克服したと、そう言えるのかもしれません。

その日を目指して、他の誰でもないわたしの道を苦しみ楽しみながら歩んでいきたい、いまはそう、思うのです。

苦しむために苦しむ世界 [うつが教えてくれたもの]

からだの状態が切り替わり
苦しみの時間に入るたび
いつも思うことがある

うつの苦しみは
苦しむために苦しむ時間
苦しむために苦しむ世界の中から生まれてくる


からだはとても重くだるくなり
なにをするにも気力を奮い立たせなければ動けず
そのただ動いて何かするということ自体が大きくのしかかり
頭の中で間断なく葛藤を続ける

時には刻一刻と迫る予定の時間と格闘し
結局動けずうっちゃることで
少しこころは休まるが
今度は予定を果たせなかったことで
自己嫌悪に陥る始末

世界は悩みと苦しみの色眼鏡に彩られ
普通の人なら気にもとめない些細なことすら拾い上げ
自分を苦しめる材料としてしまう

自分自身のコンプレックスや苦手意識は
絶対に越えられない大きな壁となって
とてつもない圧迫感と恐怖心を
こころの奥底に生じさせる

もともと何か悩みがあるのなら
それが限りなく大きくなって
出口の見えない暗闇をぐるぐる回ることになり
なかったならばなかったで
自分で何か悩みをこさえてしまう

安らぎ、希望、喜びは
世界の中から失われ
四方八方どこ向けど
常に最悪の可能性のみ目に入る

知覚 五感 認識 思考 感情 意識
全てが別人のように切り替わり
文字通り
生きる世界ががらりと変わる

そして一度この世界に陥ったら
もとの世界に帰ることは
もはやその世界の中に囚われた自分だけでは
不可能に近い


このことを認識してないと
周りの人間にとっては
その人がどのような助けが必要なのかが分からない

あまつさえ
うだうだ悩んでいるだけで行動しない
ただの甘えた人間のように見えてしまう

そして
その人自身にとっても
この認識の不足は悲劇となる

もとの世界にいた自分なら
当然できていたはずのことすらできない
という自己認識が
新たな火種となって自分を強く責め苛む

もとの世界に属する自分の物差しが
いまの自分を否定する

いまの自分の現実で
そもそも不可能であることを追い求め
自分自身を追い詰める


必要なのはそうではなく
自分自身を縛り付け
がんじがらめにしている苦しみの輪を紐解いて
苦しむために見つけた苦しみではない
苦しみを生み出す問題を一つ一つ
できるところから解体していくこと

そうは言っても本人には
到底不可能に思えるこのことを
周りの人は見守り
時に導いて
現実の側から光を当てること

これができると
その人は少し軽くなる
苦しむために苦しむ世界の現実を
少し受け容れる余地が生まれてくる


そして
その世界の理に寄り添い
現実の違いを認識できるようになると
また違った世界が見えてくる

苦しむために苦しむ世界が
辛くはあっても苦しくはない

そんな視点が生まれてくる

苦しむために苦しむ世界だからこそ
見えるものが見えてくる


苦しみはいつでも
その人の人生の課題から生まれてくる

能力的に未熟だったり欠けていたり
知らず染み込んだ価値観や認識が
自分自身を縛っていたり
人間として生物としての繋がりの中に
自分を置くことができずにいたり
他人に心を開けなかったり
自分自身を卑下していたり


現実の中に現れた
様々な苦しみの奥に潜む
そんな大元の人生の課題を
苦しむために苦しむ世界は見せてくれる

普通なら無意識に目を背けたくなる
そんな本質の問題を見せてくれる


このことは
それを見たくないものにとっては地獄だが
謙虚にそれを受け止めて
未熟な自分を成熟させたいと願うものにとっては福音だ

苦しむために苦しむことは酷く辛い体験だが
この世界を旅するたびに
少しずつこころを熟する課題が見える

そのことが
いまは少し自分を鼓舞している

前の10件 | - うつが教えてくれたもの ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。