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こころの壁 [うつが教えてくれたもの]

最近こころのキャパシティが増えつつあるおかげか、ずっと長い間、自分の中の大きな壁として居座っていた問題に、ようやく向き合えつつあります。

なんというか、これを解決しないことには次のステップに進めないという、こころの現ステージのラスボスのような問題。

いまを締めくくり次へ向かうための、みそぎのようなものですな。

まあ、内容はありふれた対人関係の縺れなんですが、一番身近な存在かつ一番躁鬱が酷いときのものだったせいで、怒り不安恐怖怯え苦しさ…といった悪感情の色付けが凄いものになっているんですよね。

おかげで、それについて考えたり向き合おうとしたりするだけで、調子が悪くなったり悪い想像が止まらなくなったりエネルギーが奪われたり不安や恐怖がどんどん襲ってきて叫びだしたくなったり…と、鬱的な意識を呼び覚ましてもう散々な状態になるわけです(T^T)

今まで何度、向き合おうとはしてみたものの、結局苦しくなって先送りとか繰り返してきたことか…。

その時は今はまだ取り組むべき時期じゃないんだとかなんとか自分を誤魔化してはきましたが、ずっとこころの片隅に突き刺さったままじくじく膿み続けていたわけで、その事実がまたこころを痛め付けたりするからたちが悪い><

なんというか、記憶の中のささいなことを取り出しては、あれはきっと蔑んでいたにに違いないとかきっと今でも変わってないんだろうとか、自分の中の恐怖心をより強く呼び覚ますような想像が、ことあるごとに離れなくなったりするんですよね。

しかも、その苦い記憶をほんの少しでも連想するような出来事が現実であったなら、たちまち浮かび上がってこころを支配していく始末。
あまつさえ、そのいま起こったことすらその記憶に結びつけて、更に悪い想像を働かせていく…という、いまいる現実にも過去にも破滅的なサイクルが働いていくわけです。

いわば、自分のなかで悪いネタをせっせと探しては、自分の中にある問題を更にたち悪く強大なものにするためにせっせとこねくり回しているような状態ですね。

昔はそれに完全に飲み込まれて支配されてしまっていたので、冷静に分析などできずこんなことは分からなかったのですが、少しメタ的な意識が育ってきた今では、人間の意識や判断が如何に過去から培ってきた「感情を色付けした記憶」に強力に左右されているかが実感としてよく分かります。

どうも意識が何か認識したり判断したりするより先に、好悪の感情がまとわりついた色眼鏡を通して物事を見てしまっているみたいなんですよね。

意識に上がってきた段階でもう好悪の情報が付加されているので、必然的に偏った情報を前提として意識や判断もせざるをえず、しかもそれが偏っていることは入力情報のみで判断している限り、意識は検証することができない、という…。

普通の人でも、例えばちょっと嫌とか苦手意識がある人が、何かいいことを言ったり親切なことをしてくれたりしても、それを素直に受け入れることができず、なにか裏があると穿ってしまったり、近づいてくるだけで反射的に胸に何とも言えない不快感が沸いてきたり、冷静に対応できなくなったりすることはありますが、この反応こそまさにそれ。

逆にあばたもえくぼと言うように、好意的な対象に対しては、それがフラットなら少しどうかと思うようなことでも、全て好意的に捉えて良い方の側面を見ようとするーー

人間関係に限らず、どんな物事に対しても人間の判断は一事が万事こういう仕組みが動いているみたいなんです。

つまり、物事は多面的で、視点を変えれば良くも悪くも見える(もちろんそれ以外の側面もたくさんある)ものですが、ファーストインパクトで与えられる好悪のフィルターを通した情報で、良い面を見るか悪い側面を見るかが無意識的に決まってしまっているってこと。

感情の力は原初的で強いので、意識はどうしてもその影響を取り除くことはできないんですね。

そして、鬱はこの仕組みが暴走して、悪い側面のみを見るフィルターが付いた色眼鏡をかけて全ての出来事を捉えている状態。

だから普通の人だったら「どうしてそんな悲観的な捉え方をするの?」と思えるような悪い解釈を常にして、そこから生まれる不安や恐怖に苦しみ続けることになるんです。
#ちなみに躁はこの逆で、全て良い側面のみで捉える色眼鏡を常にかけ続けている状態です。
#これだけ聞くと凄く良いように感じるかもしれませんが、これはこれで問題が……

このことが分からないと、普通の人にはなぜ鬱の人がそんな風な捉え方や考え方をしているのかが理解できないし、鬱の人もなぜ自分がそんな風に考えてしまうのかが理解できないで苦しむことになります。
#そう、自分自身の状態に一番戸惑って「こんなはずじゃない」と思っているのは
#何よりも鬱の人自身だったりするんです。

ここから、自分を責めてしまったり、相手の反応にいらいらしたり、どう対応したら良いか分からないといったことも生まれるんだと思うんですよねー。

鬱は「本人のこころの弱さのせいで、意思や考え方でなんとかなる」という風に、こころのどこかで普通の思考ができる人は思いがちですが(そして本人の中の「普通の」意識は思いがちですが)、意思や考え方以前の段階の仕組みが既に暴走してしまっているので、こう考えても百害あって一利なしで、追い詰めるだけに終わります。

その状態をなんとかしたいと思うのなら、むしろその前の「悪い側面を捉えるフィルター」に働きかけて動きを鈍くするか(薬物療法)、そのフィルターを呼び出す大元となる記憶や呼び出される記憶にまとわりついた感情を別のものに変化させるか(心理療法)、その状態に襲われている自分に対して自分の中の「普通の意識」が下している認識が改まるか(内観による意識の変化)しないとだめなわけです。

最後がちょっと分かりづらいですが、自分の中に生まれる苦しみはたいてい、自分の中にある「普通の意識」が生み出しているものなので、その意識が自分の状態をどう理解し捉えるかで、苦しみの量を減らし別の折り合い方ができるようになります。

仕組み自体は人間であれば例外なく普通に備わった仕組みのため、薬物療法や心理療法だけでは、また別の状況がこの仕組みを動かした時、また暴走状態になる可能性は常にあります。
鬱が再発のリスクが常にあると言われるのは、まさにこのためだと思うんですよね。

なので、鬱を根本的に克服するためには、どうあっても「鬱の状態に陥った時の自分」に対する自分自身の意識が変わる必要があるのかな、と。

それが変わるだけで、意識は大分楽になるし、色々と考えたりする余裕も生まれてきますしね。

そしてその余裕があればこそ、自分の「鬱の状態」自体も軽減されていくループができるのだと思います。

なんか思わず熱くなって長々と語ってしまいましたが(ここにも例の感情判断の仕組みが働いていますよね^^;)、まあ、こういう側面から捉えることもできるんだということで、なにかの参考になれば幸いです。

ここを更に掘り下げたら、鬱に苦しむ人を苦しみから救う道もなにかしらか見えてくるかな?

このことは、少しずつでも深めていってみようと思います。
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