こころの羅針盤 [うつが教えてくれたもの]
突然ですが、最近、めっきり涙もろくなりました。
いや、昔から涙腺は緩い方ではあったのですが、最近はそれに輪をかけたというか、ほんとヤバいぐらいです^^;
ドラマやアニメを観ていたり、小説を読んでいたり、時には人と話している時にすら、ついうるっときてしまうことがよくあります。
なんつーか、やたら感動しやすくなってるような、そんな感じw
まあ、絶望の毎日にあって泣くことすらできなくなっていた頃を思えばずいぶん人間になったなあ、という感じがするのでいいのですがw
むしろ、そういう体験があったからこその反動みたいなものもあるのかな?f^^;
昔はなんか、涙を流しているところを見られるのがとても恥ずかしく感じたりして、涙腺が緩むとこころを逃がしてそれ以上感じないようにしてることもよくありました。
いまでもそう感じる部分は結構あるのですが、最近は話している最中とかは相手も反応に困るので思うので流石にあれとして(相手にとってはなんでここで?っていう些細なところで反応したりするんです^^;)、ドラマや小説などの物語に揺り動かされて流す涙はこらえることをせず、とても素直に流すようになった気がします。
おかげで5分とおかずぼろぼろ涙を流しながら読書や観賞をしてたりすることも。
(端から見たら相当アレげな光景だろうなと思います^^;)
まあね。自分のこころが感じたものを圧し殺さず素直に表現するって人間にとってとても大切なことだと思うしね。
それになんか、最近自分に流れる涙は、忘れてはいけない大切なことに目を向けるよう、魂が導いてくれているような気がしてならないんですよ。
いまの自分は意識のモードがよく切り替わり、こころの在りようも物事の捉え方も感じ方も、その時々で文字通り別人のように変わる状態にあります。
しかし、物事の捉え方も感じ方も全然違う状態の中にあっても、不思議とこの涙だけは共通してたりするんですよね。
なんつーか、自分でも自覚しないままいつの間にか流れ出していたりするので、表層的な意識(自分を感じているところ)を超えた、より深いところからこみあがってくる感覚に思えるんですわ。
しかも、この深いところにあるこころの琴線を刺激するのって、考えてみると決まってあるテーマが根底にあるように感じてます。
一言で言うのは難しいですが、人の暖かさや優しいこころに触れた時だとか、人のこころとこころが触れあった瞬間だとか、人と人、人と命、人ともの、人と世界が繋がりあった、そんな感覚を覚えた時と言えばいいでしょうか。
(更に言えば存在と存在がこころを介して繋がる時、がより正確なような気がします)
自分自身、繋がりの中から切り離され、意識がとことん孤独の底へと堕ちていく、そんな病を経てきたので、余計にそういったものが響いてくるのかもしれません。
まあでも、社会的な動物である人間、そして地球という1つの生命の物語の歴史の中に存在している人間として考えると、こういった繋がりに共鳴するこの感覚って悪いものではない…どころかとても大事なことだと思います。
意識やこころはたまに自分を偽り嘘をつき自分自身を見失わせますが、この涙だけはいつでも、見失ってはいけない大事なことを教えてくれ、進むべき道を改めて示してくれている。
そう、言うなれば私のこころの羅針盤みたいなものでしょうか。
今後、自分が選択していく人生においても、道に迷うことはまだまだただあるでしょうが、常にこの羅針盤を大切に、指し示す方向をしっかりと見つめて歩いていきたいと考えています。
紡いでいく物語にも、この羅針盤が示してくれているものをしっかり書き込んでいきたいな。
そういう物語を紡げるだけの感覚や技量、表現力や文章力もこれからもっともっと磨いていかなければなりません。
いままでの自分の技量じゃ、表現しきることもきちんと伝えきることも到底できそうにないですからねー。
そういう意味でも、もっともっと成熟せにゃな。
未熟を熟する道のりは、まだまだ始まったばかりです。
いや、昔から涙腺は緩い方ではあったのですが、最近はそれに輪をかけたというか、ほんとヤバいぐらいです^^;
ドラマやアニメを観ていたり、小説を読んでいたり、時には人と話している時にすら、ついうるっときてしまうことがよくあります。
なんつーか、やたら感動しやすくなってるような、そんな感じw
まあ、絶望の毎日にあって泣くことすらできなくなっていた頃を思えばずいぶん人間になったなあ、という感じがするのでいいのですがw
むしろ、そういう体験があったからこその反動みたいなものもあるのかな?f^^;
昔はなんか、涙を流しているところを見られるのがとても恥ずかしく感じたりして、涙腺が緩むとこころを逃がしてそれ以上感じないようにしてることもよくありました。
いまでもそう感じる部分は結構あるのですが、最近は話している最中とかは相手も反応に困るので思うので流石にあれとして(相手にとってはなんでここで?っていう些細なところで反応したりするんです^^;)、ドラマや小説などの物語に揺り動かされて流す涙はこらえることをせず、とても素直に流すようになった気がします。
おかげで5分とおかずぼろぼろ涙を流しながら読書や観賞をしてたりすることも。
(端から見たら相当アレげな光景だろうなと思います^^;)
まあね。自分のこころが感じたものを圧し殺さず素直に表現するって人間にとってとても大切なことだと思うしね。
それになんか、最近自分に流れる涙は、忘れてはいけない大切なことに目を向けるよう、魂が導いてくれているような気がしてならないんですよ。
いまの自分は意識のモードがよく切り替わり、こころの在りようも物事の捉え方も感じ方も、その時々で文字通り別人のように変わる状態にあります。
しかし、物事の捉え方も感じ方も全然違う状態の中にあっても、不思議とこの涙だけは共通してたりするんですよね。
なんつーか、自分でも自覚しないままいつの間にか流れ出していたりするので、表層的な意識(自分を感じているところ)を超えた、より深いところからこみあがってくる感覚に思えるんですわ。
しかも、この深いところにあるこころの琴線を刺激するのって、考えてみると決まってあるテーマが根底にあるように感じてます。
一言で言うのは難しいですが、人の暖かさや優しいこころに触れた時だとか、人のこころとこころが触れあった瞬間だとか、人と人、人と命、人ともの、人と世界が繋がりあった、そんな感覚を覚えた時と言えばいいでしょうか。
(更に言えば存在と存在がこころを介して繋がる時、がより正確なような気がします)
自分自身、繋がりの中から切り離され、意識がとことん孤独の底へと堕ちていく、そんな病を経てきたので、余計にそういったものが響いてくるのかもしれません。
まあでも、社会的な動物である人間、そして地球という1つの生命の物語の歴史の中に存在している人間として考えると、こういった繋がりに共鳴するこの感覚って悪いものではない…どころかとても大事なことだと思います。
意識やこころはたまに自分を偽り嘘をつき自分自身を見失わせますが、この涙だけはいつでも、見失ってはいけない大事なことを教えてくれ、進むべき道を改めて示してくれている。
そう、言うなれば私のこころの羅針盤みたいなものでしょうか。
今後、自分が選択していく人生においても、道に迷うことはまだまだただあるでしょうが、常にこの羅針盤を大切に、指し示す方向をしっかりと見つめて歩いていきたいと考えています。
紡いでいく物語にも、この羅針盤が示してくれているものをしっかり書き込んでいきたいな。
そういう物語を紡げるだけの感覚や技量、表現力や文章力もこれからもっともっと磨いていかなければなりません。
いままでの自分の技量じゃ、表現しきることもきちんと伝えきることも到底できそうにないですからねー。
そういう意味でも、もっともっと成熟せにゃな。
未熟を熟する道のりは、まだまだ始まったばかりです。
2013-10-12 22:49
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