連なりの中の自分の役割 [うつが教えてくれたもの]
いまの自分の役割ってなんだろう。
たまに、そんなことを考えます。
この自然界に無駄なものなど何一つないように、人間、どんな人にだってその時その場所で為すべきことや役割があります。
自分のいまの年齢、体験、想い、気質、今まで出会った人、モノ、生命、思想、受け取ってきた様々なもの…
まだまだ不安も恐怖も欠点も未熟さもたくさんあります。
未来も見えないことだらけです。
でも、色々なものが連なっていまの自分を作り上げているように、この世界の明日へと続く無限に近い連なりの中に、還せるものはなんだろうか、還すべきものはなんだろうか、そう、意識するようになってきました。
人の体験や喜び、苦しみ、悩み、想いはみんな個人に閉じたものです。
でもそこから得た何かを連なりの中に還すならば、それは明日の世界を形作る糧となります。
そして、正も負もひっくるめて様々自分に連なってくるものの中から、何を得るか何を還していくかはその人自身の意識でいくらでも変わるんですよね。
この社会の中で生きる人間として、この世界の中に存在する生命として、わたしはいままでの人生から何を得て、次の連なりの中に何を還していけるだろう、何を還していきたいのだろう、それをこころに問うています。
たぶん、三十代半ばを過ぎて、社会を担う世代、次代を育てる親の世代となっている自分が、人生のいまの時期に与えられている役割って、本来そういうところにあるのではないかなあ、と。
生命の連なりの大きなの循環の中で見た時、この年齢ってそういう役割を果たすものではないかと、そう思うのです。
はじめの問いも、今まで、自分を中心に人それぞれの個人的な役割を考えてしまっていたのですが、なんかそれだと途中で行き詰まるというか苦しくなるというか、とにかくこうだと思ってもなんかこころに根付かなかったんです。
でも、実はもっと大きな循環の中での役割が本来あって、その上で自分が何をしていくか考えなければいけないんじゃないかって思うようになってから、なんかだいぶこころ穏やかに問いに向かえるようになった気がします。
たぶん、元々物事を深く難しく考える性質のあるわたしにとっては、これがこころにすっと落ちる1つの真実の形だったんでしょうね。
まあ、現実の自分は未熟で色々問題も多く、到底大きな役割を果たすには至っておらず、 個人的な役割にもまだたどり着いて すらいない半端者なのですが、こう思って一歩一歩先へ進んでいけば、いつかは年齢にふさわしく成長できるのではないかと思います。
昔は到底そうは思えなかったですが(いや、いまでも思えない意識の時は結構ありますが^^;)、 苦しみってありがたいですね。
自分の至らないところ、未熟な意識、周囲を取り巻く問題の構造や関係性の歪みなど…色々なものを見せてくれます。
いまのわたしにとっては、病気はわたしにこういう様々なことに気付かすために、魂がもたらしたものに思えてます。
病気の様々な経験を乗り越えなければ、苦しみの背景深くにあるものなんて考えもしなかったし、また見えもしなかった、それは紛れもない事実です。
だとしたら、ここで魂が気付かせてくれたことを糧にして自分を成熟させ、そこから少しでも未来の連なりの中へと還していくものを見つけることーーその先にこそ、自分の本当の役割が見えてくるのでしょう。
それにたどり着いた時にこそ、この病気を本当に克服したと、そう言えるのかもしれません。
その日を目指して、他の誰でもないわたしの道を苦しみ楽しみながら歩んでいきたい、いまはそう、思うのです。
たまに、そんなことを考えます。
この自然界に無駄なものなど何一つないように、人間、どんな人にだってその時その場所で為すべきことや役割があります。
自分のいまの年齢、体験、想い、気質、今まで出会った人、モノ、生命、思想、受け取ってきた様々なもの…
まだまだ不安も恐怖も欠点も未熟さもたくさんあります。
未来も見えないことだらけです。
でも、色々なものが連なっていまの自分を作り上げているように、この世界の明日へと続く無限に近い連なりの中に、還せるものはなんだろうか、還すべきものはなんだろうか、そう、意識するようになってきました。
人の体験や喜び、苦しみ、悩み、想いはみんな個人に閉じたものです。
でもそこから得た何かを連なりの中に還すならば、それは明日の世界を形作る糧となります。
そして、正も負もひっくるめて様々自分に連なってくるものの中から、何を得るか何を還していくかはその人自身の意識でいくらでも変わるんですよね。
この社会の中で生きる人間として、この世界の中に存在する生命として、わたしはいままでの人生から何を得て、次の連なりの中に何を還していけるだろう、何を還していきたいのだろう、それをこころに問うています。
たぶん、三十代半ばを過ぎて、社会を担う世代、次代を育てる親の世代となっている自分が、人生のいまの時期に与えられている役割って、本来そういうところにあるのではないかなあ、と。
生命の連なりの大きなの循環の中で見た時、この年齢ってそういう役割を果たすものではないかと、そう思うのです。
はじめの問いも、今まで、自分を中心に人それぞれの個人的な役割を考えてしまっていたのですが、なんかそれだと途中で行き詰まるというか苦しくなるというか、とにかくこうだと思ってもなんかこころに根付かなかったんです。
でも、実はもっと大きな循環の中での役割が本来あって、その上で自分が何をしていくか考えなければいけないんじゃないかって思うようになってから、なんかだいぶこころ穏やかに問いに向かえるようになった気がします。
たぶん、元々物事を深く難しく考える性質のあるわたしにとっては、これがこころにすっと落ちる1つの真実の形だったんでしょうね。
まあ、現実の自分は未熟で色々問題も多く、到底大きな役割を果たすには至っておらず、 個人的な役割にもまだたどり着いて すらいない半端者なのですが、こう思って一歩一歩先へ進んでいけば、いつかは年齢にふさわしく成長できるのではないかと思います。
昔は到底そうは思えなかったですが(いや、いまでも思えない意識の時は結構ありますが^^;)、 苦しみってありがたいですね。
自分の至らないところ、未熟な意識、周囲を取り巻く問題の構造や関係性の歪みなど…色々なものを見せてくれます。
いまのわたしにとっては、病気はわたしにこういう様々なことに気付かすために、魂がもたらしたものに思えてます。
病気の様々な経験を乗り越えなければ、苦しみの背景深くにあるものなんて考えもしなかったし、また見えもしなかった、それは紛れもない事実です。
だとしたら、ここで魂が気付かせてくれたことを糧にして自分を成熟させ、そこから少しでも未来の連なりの中へと還していくものを見つけることーーその先にこそ、自分の本当の役割が見えてくるのでしょう。
それにたどり着いた時にこそ、この病気を本当に克服したと、そう言えるのかもしれません。
その日を目指して、他の誰でもないわたしの道を苦しみ楽しみながら歩んでいきたい、いまはそう、思うのです。
2013-10-09 16:12
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