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魂の導くものは [ことのは]

自分の身に病気という形で現れたこれが
もし魂の叫びだとしたら

それはなにか
大切なものを伝えようとしてくれているのかもしれない


現代社会のシステムに過剰に適応していた自分に
改めてそれは本当に正しいことなのか
突きつけてくる魂の声


自分を縛っていた価値観の
外に出ないと決して見えなかった大切な世界

それを知らしめるための魂の声


魂の識る豊かな世界を感じることができるように

魂はいま

僕を変質させている


まとまりないまま書いてみる [日記・雑感]

ここのところ、どうにも低調子の日々が続いてます。

もともと停滞期から活動期に切り替わる途上は、通常の春の入りと同じく三寒四温で行ったり来たりしがちではあるのですが、今回はどうにもエネルギーが足りないというか、こころの障壁を越えきれないというか、めんどくささと虚しさの感情が勝ちがちで困ります。

この状態だと考えも発散ばかりでまとまりづらいし、言葉をまとめるのも考えただけでめんどくさいし、そもそもモチベーションだって虚しさと自己否定に負けてなくなりがちなので、ブログ更新も滞ります。

前回ああ書いてみた以上、あまり時間はあけたくないなあ…とかいう思いがあるので、ちとばかし不本意な状態です。

まあ、こう思ってしまうことがもう、何か勝手に気負っちゃってる状態で、それが必要以上にこころとからだを縛りあげて、身動きとれなくさせている、というのは分かっちゃいるんですけどねー。
(うつ側に傾いている時には非常に良くあるこころの有りようです)

たぶん、前回、少し顔を出して書いたことで、(その先にいるかもしれない)人の目を気にするこころが出てきてしまったのが大きいんでしょうね。

以前より大分改善されたとはいえ、人の目に触れさせるからには形のできあがった、意味あるものを見せなければならない、という強迫観念に近い防衛本能がまだまだ強いので、意識してしまったことで身構えてしまったんでしょう。

つーことなのでとりあえず、身をほぐすためにもここは深く考えず、まとまりがなくても意味がなくても面白みも何もなかろうとも、つらつらと現状を綴ってみた次第。

んで、こうやって徒然にでも意味ない独り言を綴っていると、なんか思考にまとまりが出てきて調子も少し上向くから不思議不思議。

まあうつ的な頭の使い方をしてる時は頭全体が不活性な冬眠状態に近いエネルギー準位に下がっているようなので、無理矢理にでも言語野を活性化させることで少し活が入るんでしょうな。

ついでに言えば私が普段、私と認識している「私」は、言語によって形造られる内的空間に非常に深く相関している感じがするので、言語野に活を入れて「私」を苦しめているもやもやした感覚を言葉にすることで、「私」自身が少し上向いた感じがするのは当然の帰結であるのかもしれません。

私が私と思う私が何者でどこにどのように存在(偏在)して何のために在るものなのか、これは最近よく考えてしまう興味の尽きないテーマだったりするんですが、まあ、そこまで話を広げていってしまうといくら時間があっても足りなくなるので、また気が向いた時にでもつらつら書いてみることにいたしましょう。

とりあえずいまは夜勤明けなので、つらつら書いて上向いたところで、きちんとからだを休めてこころの回復力を高めようと思います。

ぐっすり意識を休められるといいな。

それではまた~


そろりと顔を出してみる [日記・雑感]

大層久しぶりに日記(雑記)形式の更新です。
なんか、こうやって書くの久々すぎて、勝手が分からなくなりすぎてて困ってます(笑)

ここ数週間、ちょっとリハビリと続けられるかのトライアルを兼ねて、なんの説明もコメントもないまま、徒然と自分の中にいることばを形にして吐き出してみました。

見ている方はどう思ったかはともかくとして、まあ、どれも概ねその時々の状態の中で漂っている生のことばを形にしてみたつもりです。

双極性の気分障害を長年患ってるだけあって、こころとからだの状態の揺らぎが普通の人よりかなり大きいので、ことばの中身も強さも向いてる方向も表現できるものも表現したい気持ちもその時々でがらりと変わります。

ほんと、自分でも一日前と一日後の自分が思考回路から身体状態までなにもかもが違いすぎて、同じ「私」であることが信じられなくなる時ありますもん(笑)

更に、自我というのは都合がよくできているもので、調子がよく前向きで強い自分を本当の自分だと思い、調子が悪く後ろ向きで弱い自分は本来の状態にないまがい物だと無意識に否定していたりするので(そしてその自己否定が自分を苦しめることにも繋がったりもするのですが…)、尚更同じ「私」とは認めたくないのかもしれません。

最近なんか突き抜けたので、更に上位の層からまあどっちもやっぱり自分かなと思えるようにはなりましたが、一昔前までは強い自分が優位にあって弱い自分の言葉は出したくないという気持ちに支配されていたような気がします。

まあ、そもそも状態が陰に切り替わっている時って、意識が外に向かないので、自分から外に発したいなんて思いませんしねー。
その時メモした言葉も陽の状態にある意識で見ると、まさに自分の恥部であって外に出したいなんて思えないから尚更です。

かくして、いままで何度も書こうとしては苦しくなって頓挫するを繰り返していたのですが(年初の更新もその1つです)、だいぶ自分の色々な状態のことばを自然と出してみようかと力を抜いて思えるようになってきたので、試しに1サイクルほど書いてみました。

結果はまあ…状態が悪いときはそもそも言葉をまとめたり外へ出したり虚無や面倒臭い気持ちに打ち勝って何かをしたりするエネルギーがなかったりするのでまとまり具合や更新頻度どうしても落ちてしまうのですが、その時にはその時なりに何かを表現しようとはできたかなあ、と思います。

なにより、自分の不安定に安定した循環のサイクルを1つ越えた今でも、こうやって何かを表現してみようとする想いが継続しているのが、自分にとってはかなり素晴らしいことだったりしています。
(実際には虚無感で途切れた瞬間はありましたが、再び芽吹かせることができているのが流れとしては良いですね)

このあたり、なぜ素晴らしく感じるのかは散文調になんとなく書き連ねたものがあるので、ちょっとご紹介。
(昨日更新するつもりで書きはじめて、書ききれないままお蔵入りになるとこだったので、もったいないから再利用です(笑))


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不安定に安定した循環の移り変わり、
こころとからだが冬から春へと切り替わっていくこの時季は、
いつも自分の中の虚しさや怠惰な心といったものとせめぎあいになる。

前のサイクルで始めたことやこころの有りように審判が下るのも全てここ。
冬の間にすっかり停滞してしまった活動の1つ1つを再び活性化するにはかなり大きなこころのエネルギーが必要で、
常に
やっても意味などないのではないか、
このまま何もせずに流されている方が楽ではないか、
といった気持ちがこころに涌いては再び動き始めるのを阻害する。

始めた当初の決心や想いは冬の間にすっかり凍りつき砕けて保てなくなっていることが常であり、
ここで再び芽吹かせることができるか否かは、
こころの奥底の土壌が育まれているかどうかにかかっている。
想いの欠片が充分な栄養として染み込んでいるかにかかっている。

思いつきで始めてみたようなことは、まず再び芽吹かない。
強く決心をして始めてみたようなことでも、十中八九は越冬しない。
何度も頓挫し、よほど強く覚悟を決めることができたものになってようやく、
複数のサイクルにまたがって継続する芽を出すことができる。

普通の人でも、物事を習慣化するのに最低三週間は継続しなければいけないという。
三週間もあれば確実に循環のサイクルが一巡りはしているいまの自分の状態では、
物事を継続するのがいかに困難になっているか、
冷静に考えなくてもよく分かる。

それでも、普通の人の何倍もの時間をかけて、
少しずつ継続して芽吹くものが増えているのは、
喜ばしく、ありがたい事実である。
それによってこころの土壌も少しずつ豊かになり、
次の試行をできる範囲が少しずつ拡がっているのが実感として感じられるのだから。

果てしない循環の中、こころに何を根付かせていくべきか、
それを考えながら新しいサイクルを生きていこう
ーーーーーーーー


まあ、そういうことで、とりあえずまだしばらくは更新継続のチャレンジができそうです。

その時々の自分の状態に合わせて、散文だったり雑記だったり物語を紡いだり、まじめな話だったり何気ない日常の話だったり、時には絞り出した一言だけだったりもするかもしれませんが(ぉぃ)、自分の中からでたことばを徒然なるままに書いていこうと思いますので、よろしければ時々お付き合いくださいませ。

このまま安定してブログ表現ができるようになってきたら、FacebookやTwitterあたりまで、徐々に復帰できたらと考えておりますが、まあそれはまだ先の話。

しばらくはこれまでと同じく、継続して自分の足元を固めていこうと思います。

苦しむために苦しむ世界 [うつが教えてくれたもの]

からだの状態が切り替わり
苦しみの時間に入るたび
いつも思うことがある

うつの苦しみは
苦しむために苦しむ時間
苦しむために苦しむ世界の中から生まれてくる


からだはとても重くだるくなり
なにをするにも気力を奮い立たせなければ動けず
そのただ動いて何かするということ自体が大きくのしかかり
頭の中で間断なく葛藤を続ける

時には刻一刻と迫る予定の時間と格闘し
結局動けずうっちゃることで
少しこころは休まるが
今度は予定を果たせなかったことで
自己嫌悪に陥る始末

世界は悩みと苦しみの色眼鏡に彩られ
普通の人なら気にもとめない些細なことすら拾い上げ
自分を苦しめる材料としてしまう

自分自身のコンプレックスや苦手意識は
絶対に越えられない大きな壁となって
とてつもない圧迫感と恐怖心を
こころの奥底に生じさせる

もともと何か悩みがあるのなら
それが限りなく大きくなって
出口の見えない暗闇をぐるぐる回ることになり
なかったならばなかったで
自分で何か悩みをこさえてしまう

安らぎ、希望、喜びは
世界の中から失われ
四方八方どこ向けど
常に最悪の可能性のみ目に入る

知覚 五感 認識 思考 感情 意識
全てが別人のように切り替わり
文字通り
生きる世界ががらりと変わる

そして一度この世界に陥ったら
もとの世界に帰ることは
もはやその世界の中に囚われた自分だけでは
不可能に近い


このことを認識してないと
周りの人間にとっては
その人がどのような助けが必要なのかが分からない

あまつさえ
うだうだ悩んでいるだけで行動しない
ただの甘えた人間のように見えてしまう

そして
その人自身にとっても
この認識の不足は悲劇となる

もとの世界にいた自分なら
当然できていたはずのことすらできない
という自己認識が
新たな火種となって自分を強く責め苛む

もとの世界に属する自分の物差しが
いまの自分を否定する

いまの自分の現実で
そもそも不可能であることを追い求め
自分自身を追い詰める


必要なのはそうではなく
自分自身を縛り付け
がんじがらめにしている苦しみの輪を紐解いて
苦しむために見つけた苦しみではない
苦しみを生み出す問題を一つ一つ
できるところから解体していくこと

そうは言っても本人には
到底不可能に思えるこのことを
周りの人は見守り
時に導いて
現実の側から光を当てること

これができると
その人は少し軽くなる
苦しむために苦しむ世界の現実を
少し受け容れる余地が生まれてくる


そして
その世界の理に寄り添い
現実の違いを認識できるようになると
また違った世界が見えてくる

苦しむために苦しむ世界が
辛くはあっても苦しくはない

そんな視点が生まれてくる

苦しむために苦しむ世界だからこそ
見えるものが見えてくる


苦しみはいつでも
その人の人生の課題から生まれてくる

能力的に未熟だったり欠けていたり
知らず染み込んだ価値観や認識が
自分自身を縛っていたり
人間として生物としての繋がりの中に
自分を置くことができずにいたり
他人に心を開けなかったり
自分自身を卑下していたり


現実の中に現れた
様々な苦しみの奥に潜む
そんな大元の人生の課題を
苦しむために苦しむ世界は見せてくれる

普通なら無意識に目を背けたくなる
そんな本質の問題を見せてくれる


このことは
それを見たくないものにとっては地獄だが
謙虚にそれを受け止めて
未熟な自分を成熟させたいと願うものにとっては福音だ

苦しむために苦しむことは酷く辛い体験だが
この世界を旅するたびに
少しずつこころを熟する課題が見える

そのことが
いまは少し自分を鼓舞している

虚無にまみれた世界のなかで [ことのは]

だいじょうぶ

僕はまだ

こころを失ってはいない

共鳴する音しない音 [ことのは]

快調なときと不調なとき

聴ける音が違っている


こころが落ち込んでいるときは

落ち着いた染みいる音が聴きたくなる

アップテンポやリズミカルな音

大きな音やかん高い音は

例え好きでも聴けなくなる

ざわざわして溢れそうなこころに弾かれる


こころが弾んでいるときは

リズミカルなアッパーチューンが良く響き

こころが燃えているときは

力強い音によく共鳴する


こころとからだの状態によって

受け付けられる音がそもそも違う

奥底まで響く音は大きく違う


こころとからだの状態に

共鳴する音しない音

こう考えていくとおもしろい



してみると

落ち込んでいるとき

元気な人の励ましがなぜか辛かったりするのは

言葉の内容がどうという以前に

その声自体がそもそも不協和音に響いている

そういうこともあるのかもしれない

こころがつらいと感じるとき [ことのは]

こころとからだは繋がっている

こころの負担はからだの不調を引き起こし

からだの負担は心の不調を引き起こす


ここ最近

少しからだに無理をかけた

こころは充実していたが

からだに負荷が溜まっている


こういう時はちょっと辛い

こころがからだに引っ張られる


このままこころが沈まぬように

こころのペースを少し落とし

からだを労り過ごそうか

荒涼感 [ことのは]

今日は過去のノートから言葉を1つ。
奈落の底に落ち続けていた時に綴った、生の言葉です。

〈hr〉

この胸の奥の寂莫とした光景

失ってしまったものはなんだろう

もう取り戻せないものはなんだろう

この先生きていたとして

もう二度と

心から笑える日が来るとは思えないのは

私の人生のピースから

何が喪われてしまったためだろう

いや、もともとそれは幻想で

私の人生ははじめからカラッポだったのかもしれないけど

アンバランス [ことのは]

まだ世界に光が充ちていたあの頃

無邪気にそして傲慢に自分の完全さを確信していた私はもういない

うつという大波が私の全てを押し流し

崩壊させてしまったから


廃墟と化した心のなかで少しずつ私を再興し

ようやく自分らしきものを取り戻すまでに回復したいまでも

未だに僕は不完全で

恐ろしいまでに不完全さにまみれている


でも昔と違うことがひとつある

いまは不思議と

その不完全さが愛おしい


限りない不完全さにまみれているのが人間で

その不完全さの中で揺れ動くのが

人生だと思うから


少しでも心地の良い調和のとれた状態を目指しながら

不完全さの中でバランスをとっていくのが

人間なのだと思うから


自分も他人も誰一人の例外もなく

誰もがおしなべて不完全


そのことを受け容れられた時

少し世界が優しくなった


不完全さに少し寛容になれる自分がいた


いまでも大きく揺れ動き

時にはこのことを忘れてしまうことすらあるけれど

そんな不完全さにまみれた魂を

いまはこの上なく愛してる

未熟であるということ [ことのは]

未熟である時は自分の未熟さが分からない



細かな機微を表現する言葉を知らなければ

細かな違いを無視して大雑把に括った表現をするしかないように

そして

その違いを無視することが

当たり前だと認識しているように


未熟であるうちはその未熟さか当たり前すぎて

何が問題になるのかが分からない

未熟な事実が見えていない



熟するというのは世界が広がるということ

今まで見てはいても見えてはいなかった様々なことを

きちんと見つめることのできる新たな視点を獲得するということ


井の中の蛙が井戸を出た時

今まで想像だにしていなかった広大な世界を目にするように

文字通り世界ががらりと変わり

見えるものもものの見方も認識も

何もかもが一新する


その広大な新しい世界を知ってから元いた世界を見てみると

如何に自分が小さな世界の物差しで物事を見ていたか分かって恥ずかしくなる


きっとそれが少し成長したということ

未熟が少し成熟に近づいていくということ



熟するためには

いつでも他の世界の風に触れることが必要になる

自分の狭い世界しか見ていないうちは

自分の外など決して見えてはこないのだから

自分が全てと思っている世界が

自分の見ている現実が

自分の価値観や判断基準そのものが

もしかしたら狭い世界に囚われてしまっているのではないかと疑って

自分の物差しを少し手放して他の人の見ている世界に目を向けてみる

その先にしか

未熟の殻は見えてこない



それがわかる程度には

未熟の階段を上れたということなのなら

この数年の絶望の日々も

大いに意味があったのだろう


いまは素直にそう思える

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