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灰色の時間 [うつが教えてくれたもの]

ここ2週間近く、ずっと左の頬が腫れています。

最初は風邪から歯茎が腫れて、それが頬までパンパンにし、次に埋没してた親知らずを抜いて今度は下顎かあたりが腫れ…というダブルパンチT^T

そのせいで、今回の沈む時期は長引いていたりします(涙)

正常な人でもそうですが、身体の不調はこころを陰鬱にしていきますよね。
その不調に意識が集中して、何をしてもそれが離れず、まともな思考ができなくなる。

これは感情が先に痛みやしんどさや苦しさにフォーカスして、それをベースに思考を引っ張るからなのですが、鬱的な心理状態にいるときも同じ仕組みが動いているようなんですよね。

思考より前にしんどさや不安の感情がまず動き、それが思考を引っ張って否定的な連想を引き出し、それがますます感情を増幅して更に破滅的な連想をもたらし…という悪循環。

自分の状態をよくよく内観してみると、そうやって苦しみや虚無感や絶望が育っていくのがよく分かります。

思考の主導権が意識から情動に完全に移ってしまっている状態なんですね。

今回は、意識側に軸足を置く私という自意識が、そんな時何を感じているか、それをちょっとことばにしてみましたので紹介してみます。

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思考が足踏みをして逃げていく

灰色の霧に囚われた時間


何を考えても

何を思っても

言葉は全然深まらない


こころがすぐ

こんなことを考えても意味ないと

虚しい想いを誘導する


胸のあたりに吹き溜まる

もやもやとした息苦しさが

思考の未来を塗り潰す


知らず

思考を苦しさで支配する


こころを蝕む息苦しさは

瞬く間に全てを負の引力で包み込み

自分の行動や記憶すら

恥辱に満ちた視点で塗り替える


未来を暗闇に閉ざしては

自分のやっていることは意味はないのだと

こころを虚しさに堕とし込む

こころの活力を奪っていく


何も生み出さない

何も生まれない

限りなく無為に過ぎ去る時間

限りなく意志の希薄な時間…


--------


感情が意識を置き去りにして

思考の行方を規定する

こころの活力を低下させ

からだの活動を鈍くする


いわば不安がからだの主導権を握っている

ーーそんな時間


この時間

意識は自分の主人でない

感情の表すからだの苦しい状態を

ただなぞるだけの無力な傍観者


意識は能動的に働けず

それ故苦しみも果てはない


意識が感情とのバランスを

取り戻せない限り救いはない


だがしかしーー


意識を無力な傍観者に落とし込む

この時間を産み出す感情が

本当は何から自分を守りたくて生まれたのか


ーー意識は知らないままでいる



空白 [ことのは]

なにもかもが気だるい苦しさに包まれる

何も考えたくない

そんな時間…

冬の入りに [うつが教えてくれたもの]

このところ、長らく秋を満喫していたのですが、とうとうからだが冬を迎えたようです。

この時季はなんだか分からない倦怠感としんどさと虚無感が意識に常駐し、疲れやすく、人と会ったり能動的に行動するのが辛くなります。

思考もまとまりづらく表現力も落ちるので、この時季に何かを進めるのはなかなか厳しいものがありますが、その分じっくり力を蓄えて、深いところで何かを熟成している感じはします。

うつの状態に飲み込まれるとそれどころではなくなりますが、その手前で少しスピードを落として、自分の中を内観しつつゆったりケアしていければ、この時季はいいかもしれません。

ということで、今回は昔のノートを引っ張り出して、うつの最中の苦しみを綴ったことばをいくつか紹介してみます。

人の意識は苦しい最中のことをすぐ忘れてしまうので、たまにはこうやって、自分の中に確かにあった感覚を振り返ってみるのも重要なんでしょうね。

自分の中の季節の変動も、確かに存在しているこの世界のことを忘れては駄目だと言っているような気がします。

からだがこの世界に共鳴しやすい冬だからこそ、改めて苦しみの中で生まれることばに耳を澄ませてみるのも悪くない、そう思ったりもするのです。


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限りなく意思というものが希薄な思考

怠惰の膜に包まれた意識

エネルギーが全て足元から抜けていく

このまま苦しみの中にキエテしまう意志ならば

存在する意味はどこにあるのだろう…

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思考の空白
考えることの拡散

極力何も感じないよう
僕は思考を止めている

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なんだかわからない

でもつらい…

頭を占めるのは辛いという意識のみ

何にも考えたくなくて

何も感じたくなくて

結局何も行動しないことを選ぶ

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焦りがとめどもなく増大していく

胸をかきむしりたくなる焦燥感

実際かきむしっても消えはしない

当然だ

僕はなにもしていない

なにも先へ進めてない

進む先さえ見えはしない……

秋が好き! [日記・雑感]

自分は秋が好きだったんだなぁ~、

と、最近唐突に気付きました(笑)


今まで一番好きな季節は春のように思っていたのですが、ここ最近秋を満喫できる空気の中を過ごしてみて、

ああ、この季節のこの空気感やしっとりと色づいて落ち着く雰囲気が大好きなんだ

と得心したというかなんというか。

春は春であの華やかで表情豊かな気分が高揚する感じが好きなのですが、どうもそれ以上に秋のこの落ち着いた空気感や実りの豊かさが自分の中には心地好く響いているようです。

たぶんこれって、私の性質自体が秋の傾向が強く出ているからなんでしょうね。
前に思索を深めるには秋の季節が一番だと言いましたが、からだの秋も季節の秋も、やっぱり何かを結実させる性質が強くあるような気がします。

そう考えると、人がどの季節を一番心地好く感じるかは、その人がどんな性質を強く持っているかによってくるのかもしれません。

多分ですけど、経営者やリーダータイプでエネルギッシュに活動してる人は夏が一番落ち着くし、慎み深く静かで一人の時間に浸るのが好きな人は冬が一番落ち着くんじゃないかな。


いまは地球温暖化の影響か、気候の変動が激しくなってあんまり秋らしい秋が体験できませんが、それでも9月あたりから徐々に朝や夕方の空気の感触や匂い、肌を撫でる風の涼やかさ、雲の感じや動きなんかが秋めいてきて、「ああ、秋だなあ…」としみじみ思って嬉しくなっていました。

街を歩いていても、コンクリートジャングルの中にあるちょっとした茂みの中から虫たちの声や合唱が聴こえたり、木々が実をつけて少しずつ熟れていく様が見られたり、身近なところでも意識して見れば意外と秋って転がってるんですよね。

人間が如何に季節感をなくそうと、そんなことはおかまいなく、自然や生き物たちは立派に秋のリズムを刻んでいるんだなぁ、と。

童謡ではありませんが、小さな秋を見つけるのがこの秋の密かな趣味みたくなってました(笑)


…というような話を「今年は秋なんてほとんどなかった」と言っていた前の会社の後輩たちにしてみたら、「朝会社に行って夜帰るだけの生活してるから、そういうことは考えもしなかった」とか言われました。
「そういう話を聞くと、なんか凄い人生損しているなあって気分になる」とも^^;

確かに自分も意識してこういう風に外の世界を感じるようになったのはここ数ヵ月ぐらいのことだし、会社勤めをしてた頃は街の飾り付けの変化などで季節の移り変わりを見ることはあっても、自然や生き物たちの変化を感じることはほとんどなかったなあ…と、それを聞いてしみじみと思いました。
だからこころが潤いをどんどん失って、最後には病気という形にまで結実したのかもしれないなあ、とも。

実際、いまのストレスフルな社会では色々なものを感じないように感覚をうちに閉じて生活せざるを得ないところがありますからね。


この、季節を感じる感性だけでなく、色々なものを感じる感性やこころの余裕がなくなっているところに、いまの社会や人々が抱える大きな問題の1つがあるような気はします。

これはとりもなおさず、人が世界と繋がれなくなった、ということを示しているわけで、その事実が示すものは非常に大きいのではないか、と。

なにせ人は何万年もの間(生物としての連なりで見たら何億年もの間)、自然のリズムをからだに取り込みながら生きてきたわけで、人間を人間たらしめていた大事な何かが、そのなかには存在してもおかしくないと思うのです。

人のこころの成り立ちやその動きにも関係していないはずはありません。

ここ数百年ぐらいで激しく社会や生活が変わり、人間が自然から切り離されたリズムで生活できるようになりましたが、数万年かけて培った人間の基礎にある自然のリズムやそこから派生してきたこころとからだの仕組みが、短期間で変化することはそうそうないのではないかと思うのです。

頭の中の知識や常識や価値観や概念は凄い早さで変化し発展し適応していきますが、生体としての人間のこころとからだは幾世代も経ないと変化をしていかないので、その早さについていけてない。
そんな壁にぶち当たっているような気がします。


そういう意味で、いまは人間が新たに獲得した生活様式と、もともと持っていた生体としての仕組みが折り合わず、きしんでいる時代であると言えるかもしれません。

このまま生体の仕組みを無理矢理人間の社会の方式に合わせていく道をとるか、社会や生活の方式をもう少し生体の仕組みに合うものに変えていく道をとるか。
いまの人のこころの問題を見るに、その分岐点に差し掛かっている感じもひしひしとしてきます。

前者をとれば人は千から万年単位の年月をかけて、多くの犠牲と苦しみと落伍者の果てに少しずつ、自然から切り離された環境に適応した生体(こころとからだ)を持つ人間を産み出していくでしょう。

あるいはもっと手っ取り早く、生体を捨てて、脳の中の情報のみで生きる道を選択するかもしれません。(SFの未来像によくありますよね。つか、いまの社会の流れはこちらに向かって進んでいるような気がしてならないのは気のせいかしら?^^;)

どちらにしてもそれは多分、いまの私たちからしてみたらまったく異質な精神と身体の構造を持つ存在に変化していることは想像に難くありません。
(だって、いまの人間のこころの在りようを規定するからだのメカニズムが脱自然の方向へ変化する以上、祖の上に成り立つ精神が今と同じになるというのは明らかに変でしょう?)

想像の翼を広げてみるに、いまの社会で非人間的と言われているこころの在りようがベースとなって発展した精神が生まれてくるのではないかと思ったりもするわけです。
いや、だって、人間らしいこころを封印してしまった方が、いまの社会って明らかに生きやすくないですか?
それをベースにますます脱自然へと発展させていくとしたら、ほら…^^;


…まあ、本当にそうなるかどうかは分かりませんが、このあたり、凄くそそられるテーマなので、なんとなく思索を深めて物語にしてみたいような気がします。
なんというか、もの書きの血が騒ぐ(笑)


つか、秋が好きって話からなんでこんなネタに話が発展したんだっけ?^^;

まあ色々つらつらと考えてみた秋の夜長でした。

ではまた!

病気になって変わるもの [ことのは]

朝食を作っている時に不意に降ってきたことばを消えないうちにメモ。

たぶんかなり大切なことだと思います。

#おかげでむちゃくちゃお腹空きました^^;

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『病気になると変わるもの』


人はなぜ

大病を患うと人生が変わるのだろう


その病気が
精神的なものにせよ
肉体的なものにせよ

己の人生観、価値観、考え方、
更にはものの見かたや感じかたまで

これまでの自分からは信じられないくらい

劇的に変わることが珍しくない



これは健常な自分が属していた社会から

一時的にせよドロップアウトすることで

自分の人生に改めて向き合うからかもしれない



病気やその後遺症によって

今までみたいに
生きられなくなるからかもしれない


それらもたぶんあるのだろう


人生観、価値観、考え方…

文化的、社会的なものから派生したものへは

このような

状況の変化が強く影響するのは間違いない



でも

それだけでは説明できない不思議なことは

ものの見かたや感じかた…

感覚に属するものが変化すること


自分の感じ認識する世界が

文字通り書き換えられること


価値観などが変わるのも

元を正せば

それが全てのベースにあると

そう言えるのかもしれない



それはなぜ起こるのだろう…

その変化はなにが変わったことによって起きたのだろう…



この変化を引き起こしたもの…


それはきっと…


多くの現代人が忘れ
ないがしろにしてしまっている

生物としての「生のからだ」と

病気を機に

正面から向き合わざるを得なくなること

なのかもしれない


生のからだの感覚を

今まで以上に
鋭敏に

意識するようになる
からなのかもしれない



それにより

文字通り意識する感覚が刷新される…


そういうことなのかもしれない

完全主義について本気出して考えてみた [うつが教えてくれたもの]

今日は、自分の中にある完璧主義について解体してみたいと思います。

うつになりやすい性質として良く挙げられる完璧主義と生真面目さですが、これって本人からすると得てしてあんまり実感がなかったりするんですよねぇ。
なんというか、自分では普通にやらなければいけないことをやっているだけの意識なのに、回りからみるとそれが真面目さや完璧主義に見えているって感じで。

自分から言わせれば、自分が真面目なのではなく、回りが不真面目すぎるんだ、と思うんですな。

だから、まじめだねぇ、とか言われるといつもそうか?と心に反論の声があがります。むしろお前らこそやらなきゃいけないことを全然やってないんじゃないか、ってw

…まあ、こう思っていること自体、既にまじめな証拠なんですがね^^;

ともかく、本人の実感なんて得てしてそんなもんだったりするんです。

人はみんな自分基準ですからねぇ…感覚の違いはなかなか気付かない^^;
(これ、他の色んなことも同様ですね)


だから今まで、自分の中にあるこの性質について突き詰めて考えてみたことなどなかったのですが、なんか今朝料理をしていたら、ふと頭に色々湧いてきたので、いい機会だし思索を深めてみようと思います。


さて、完璧主義。
言い換えるとこだわりが強い傾向、といったところでしょうか。
これは物事を深く突き詰める性質のある人に備わりやすい傾向ではないかと思うのですが、本来は良くないということは全くなく、仕事やら作品やら成果物やら学問やらの質を追究しようと思うと大変な武器となるものです。

好奇心が新たな境地を切り開いていくものだとしたら、これは目の前にある素材を極限まで研ぎ澄まして深めていくものと言えると思います。
どちらも、人間の知性にとっては大変重要なもの。
これらが備わっているから人間はここまで文明を発達させることができたと言っても過言ではないかもしれません。

ただ、物事にはすべからく裏表があるように、この傾向にも当然いい側面と悪い側面が存在します。
ある目的や目標物に向かってこの傾向が働いているときは良いのですが、日常生活のあらゆる場面やコミュニケーションにまで広がってしまうと、とたんに困ったことになります。

完璧主義ということばのイメージから連想される良くない印象は、この困ったことからくるのだと思います。

私自身、覚えがあるのは、ブログ記事やSNS投稿をはじめとして露出する場で気軽に発言できなくなる、少しでも迷いがあって自信が持てないと意見を言ったり発表することができなくなる、自分のこだわりが強すぎて他人の違いが許容できない(それ以前に他人は違うのだという意識が働かない)、自分を曲げられない、他人に弱味を見せられない、常にいいところのみを見せようとしてしまう、ささいなところにこだわって物事が完遂できなくなる…などなど。
(私にはありませんが度をすぎた潔癖性や脅迫神経症なども、気になったらとことんまで突き詰めなければ気が済まないという意味でこの傾向の1バリエーションと言えるかもしれません)

まあ要するに、完璧な自分を演じてしまう(他人の目に映る自分に穴がないよう気を使う)方向に、完璧主義が発現していたわけです^^;


自分の実感からして、こだわりや完璧主義には視点が内向きのもの(自分に向いたもの)と外向きのもの(対象に向いたもの)があり、外に向いた場合は物事を極める方向に働きやすく、内に向いた場合は自分を苦しめる方向に働きやすいような気がします。

というのも、こだわりの種類を正の方向に作用するこだわりと、負の方向に作用するこだわりに大きく分けた場合、内向きの方がその性質上、より負の方向に作用するこだわりになる傾向が強いように感じるんですよ。

ちなみにここで言う正の方向/負の方向とは、自分の感性で美や調和を強く感じ、それを極める方向でこだわりが出るか、意識が恥や汚点や不調和に向いて、それを押し隠す方向でこだわりがでるかの違いになります。

感情のレベルで見てみると、前者は自分にとっての心地よさがこだわりのベースになって、それを満たすために(多くは意識的に)働きかけるのに対し、後者は不安がベースになって、その不安を回避するよう(多くは無意識的に)働きかけているような感じ。

前者は創造的に何かを生み出しますが、後者は不安を生み出す源が変わらない限り際限なく同じ場所で足踏みを続けます。

んで、自分に向いて完璧主義が発現する場合、その多くが自分の中にある不安から無意識に生み出されてくるものなんだろうと思います。

自分に向いて正の方向に美や調和を求めていくと、自分の精神を高めようという精神修養や求道者的な完璧主義が発現していくと思うのですが、これは己の中の不安と客観的に距離を置いて付き合えるようになっていないと無理で、そうでないと先に挙げたように自分を傷付けないように表面を取り繕う方向に向いてしまうのが人間の性なんだろうと思うのです。

少なくとも自分の場合、自己肯定感が育っておらず、自分の心が傷付くことや失敗することに対して強い不安や恐怖が根底には常にあるので、それを避けるために優等生的な仮面を付けて傷付く可能性を先回りして潰し、外に見せる自分をコントロールしてきた事実は、間違いなくあります(苦笑)

そして、いつからこんなだったかなぁ…と思ってみたのですが、記憶にある限り昔からこの傾向はあったので、子どもの頃から着々と完璧主義の種を育てていたのでしょう。

それに気付いて(いや、常にこころの隅ではそのことは分かっていましたが、きちんと向き合わず目を逸らしていたと言うのが正しいところかな?) もっと早く不安とうまく付き合う術を見つけていれば、病気にもならなかったかもしれません。

まあ、病気になったからこそ逆にそのことに気付けたわけで、私にとっては通らなければならない道だったのだとは思いますが^^;

そうでなければどこまでもこの不安感に付きまとわれて人生を送っていたんでしょうね。

ちなみに、成長してくる中できちんと自己肯定感が育っている人は、もともと不安が強い傾向がある物事を深く突き詰める性質がある人だとしても、その不安に支配されることはないようです。
逆に、他の性質を持つ人でも、自己肯定感が育っていないと不安に支配されやすくはなるみたい。


この世の中、そもそも凡てにおいて完璧なものなど存在せず、それぞれの不完全さを補い合いながら支えあっているのが自然の状態なので、日常全てのレベルで常に外界に対して完璧主義で気を張っていたら、そりゃあ消耗するのは当たり前ですよね。

ほどほどで妥協して緩むというバランスの取り方が、少なくとも生活のレベルでは必要なのは確かです。
(ものづくりや芸術、創作などに向かうときは逆に正の方向に働くこだわりからくる完璧主義は解放した方がいいですけどw まあ、負の方向に飲み込まれず、時と場所を認識して正方向に能動的に使えるようになれってことですね)

加えて、不安が強い人は気を張ることが常態になって、ただでさえからだが緊張から緩みにくいみたいなので、このことを自覚しないとすぐバランスが崩れてうつという病気に近づいていくのは、なんか非常に納得できます。

同じような性質がある人は同意してもらえると思いますが、こころから楽しんだりリラックスしたりするのが非常に苦手ですからねー。
緊張からきちんと緩めないってことは自律神経系も乱れがちになるってことなので、そりゃ、病気のリスクはかなり増すわな、と(苦笑)


そんなこんななので、私と同じような自覚のある人は、からだを緊張から緩める術を意識して色々学んでいくと、ちょっと幸せになれるかもしれません。
(自分の中にある不安を生み出す素地に向き合うのは、かなり苦しいので万人にはお勧めしませんw 自分で言うのもなんですが、世の中こんな突き詰めずに、適当なところでうっちゃって別のことでバランスを取りつつ見ないようにして生きる方がよっぽど楽に幸せに生きられます^^; でも、物事の根本を突き詰める求道者的性質がある人は逆にここに向き合わないことには乗り越えられず安息は得られないので、そういう人には自分の不安の根本にきちんと向き合う道が避けられないかもしれません)


まあ、こうつらつら考えていくと、いまうつにかかる人が増えているのって、ストレスを生みやすい社会だってのももちろんありますが、それと同時に自己肯定感が育ちきっていない不安が強い人が増えているってのもなんか非常にあり得そうな気がします。

だとしたらうつを根本的に減らしていくには、いかに不安に支配されないように自己肯定感をはじめとした自分の素地を育てていくかってところにフォーカスすることも必要ということなのかもしれません。

なんかいま、自分で凄く得心したのですが、私のこころの羅針盤が指し示す先は、きっとそのあたりにあるんだろうな。


ということで、やたら長々と書いてしまいましたが(ついでな書き終わるまでに6時間ぐらいかかってますが^^;)、なんか、色々もやもや頭の中に漂っていたことが少しことばにできたような気がします。

読んでいる人にとってはどう映ったかは分かりませんが(いや、そもそもここまで読んでくれた人がいるかも分かりませんが^^;)、私にとっては確実に大きな一歩です♪

秋の訪れ [日記・雑感]

ここのところ、またからだが変化しているのを感じます。
今度は季節で言えば秋の変化。活動期から停滞期へ至る過渡期になります。

この時季は意識の主体はまだ活動期の側にありますが、次第に何をするにも少し気合いが必要になり、ことばも思考もなかなかまとまり辛くなり、身体は少しだるく重く疲れ易く、スタミナ不足の状態のように動かし続けるのもおっくうになります。
自分ではまだまだいけるつもりでいるため、意識とこの身体感覚とのギャップにあれれ…となり、焦りや不安も出てきます。
ちょうど、からだはまだ若いつもりの中年の人が運動とかして現実に直面するときの意識に似ているかもしれません(笑)

ちょっとしたことで停滞する意識を呼びやすく、疲れたりおっくうさを感じたからといって、休みを自分に与えたりすると、そのままずるずる引きずられてその日はもう能動的には何もできなくなることもしばし。
(でも次の朝になればまた状態は回復するところは完全停滞期とはやはり違います)

この時季、きちんと時間を使いたいと思ったら、常に生じてくるこころのおっくうさとの葛藤に飲み込まれないようにしながら、何かをやろうという強い意思を働かさせるのが重要になります。
まあ、これは言うほど容易くなく、私なんか連敗街道まっしぐらであったりするんですけどねー。

これをまともに過ごすことができるようになれば、もう少し健常人らしいリズムになるような気はするんですが、なかなかまだ遠そうです。
(実際、健常人っぽくなりたいかはまた別の話がありますが^^;)

不安定ではありますが、この時季はその分情緒が増すというか、2つの異なる意識の境界が曖昧になって混ざり合うため、ものを見て聞いて感じる能力は増しているような気はしています。
思考が大雑把になりすぎることもなく、自分を責めるように働いてしまうこともないため、普通の秋と同じく、物思うには最適の時季のように思います。

ただ、表現する能力も同時に落ちる傾向はあるので、それをなかなか表に表せないのがもどかしいところですが^^;

この時季、不活発に落ちるのは簡単すぎるほどに簡単です。
とはいえそこで簡単に停滞してしまっては、この時季の魅力を存分に味わえないのもまた事実。

短いこの秋の実りを自分の中にもたらすために、ここはしばし、自分の中に生じてくるおっくうさを何とか回避しつつ生活してみようと思います。


……とりあえず、このブログはおっくうさに屈することなくなんとか書けたぞ(笑)

血の通ったことば [日記・雑感]

ここ最近、3日に1回程度の更新に落ち着いてきました。
なるべく毎日何か更新したいなあ…という思いはあったのですが、どうもこれくらいの間隔の方がペース的には楽に更新できるようです。

こころとことばの力が満ちるまでに、現状それくらいかかっているということかもしれません。

いやね、何かこういうことを書きたいなと思って何か書き始めたりはしているのですが、途中でまとまらなかったり書き進められなかったりすることが結構あるんですよ。
だいたい3回に2回ぐらいはそうかもしれません。

そういう時、無理に吐き出すこともできるのですが、だいたいそれってどっかで聞き齧ったことを頭で考えて繋げてしまっているだけで、自分の感覚から生まれたことばにはなってなかったりするんですよね。

昔はそれでも無自覚に「自分の考えをまとめた」みたいに思い込んでいたりもしていたのですが、いまは、そのような自分自身の中にきちんと吸収して溶け込んでいないものを無責任に語ることは、こころが許してくれないみたいです^^;

いや、ほんと、自分のことばを持つというのは難しいですね。
これはとりもなおさず単なる知識や感想ではない、自分自身の意見を持つということと同義だからかもしれません。

自分の感覚に耳を澄まして、自分の中から生まれてくることばできちんと考えをまとめていかないと、本当の意味で自分のことばで物事を語ることはできません。

それがどれほど拙いことばであっても、どれほど世間の価値観からはずれていたとしても、自分のことばで語る限り、それは自分から生まれたものだと自信を持って言うことができますし、それ故そのことばに対して責任感も生まれます。
そのことばに対し、否定的な意見があったとしても、それを元に更に自分の感覚を深めてことばを紡ぐことができてきます。

自分のように人の目や評価を気にして不安や恐怖が強くなってる状態で、それでも外に向かって表現しようと思ったら、その不安と恐怖に打ち克ち跳ね返せないとだめなわけで、そういう意味でいまの自分のことばを模索する状態は必然なのかなとも思ってます。
表層的な言葉ではその不安と恐怖に打ち克つことはできませんからねー。

いやほんと、こうやって何かしらか言葉にしてみるというのはいいリハビリになってます。

自分自身の感覚を育て、いまの状態や中で色々渦巻いていたものを深く掘り下げていくのに、とても役立っていると感じてます。

まあ、読んでいる人には全く興味ないことかもしれませんけどねー。
それこそ、そんなところにおもねって自分を見失ってもしょうがないわけで。


この世の中で見失ってはいけない大切なことをきちんとことばにできるよう、少しずつ自分のことばを育てて書き表していければと思います。

書ききれずにいったん塩漬けにしたものも、そのうちちゃんと最後まで書けるといいな。

こころの羅針盤 [うつが教えてくれたもの]

突然ですが、最近、めっきり涙もろくなりました。

いや、昔から涙腺は緩い方ではあったのですが、最近はそれに輪をかけたというか、ほんとヤバいぐらいです^^;

ドラマやアニメを観ていたり、小説を読んでいたり、時には人と話している時にすら、ついうるっときてしまうことがよくあります。

なんつーか、やたら感動しやすくなってるような、そんな感じw

まあ、絶望の毎日にあって泣くことすらできなくなっていた頃を思えばずいぶん人間になったなあ、という感じがするのでいいのですがw
むしろ、そういう体験があったからこその反動みたいなものもあるのかな?f^^;


昔はなんか、涙を流しているところを見られるのがとても恥ずかしく感じたりして、涙腺が緩むとこころを逃がしてそれ以上感じないようにしてることもよくありました。
いまでもそう感じる部分は結構あるのですが、最近は話している最中とかは相手も反応に困るので思うので流石にあれとして(相手にとってはなんでここで?っていう些細なところで反応したりするんです^^;)、ドラマや小説などの物語に揺り動かされて流す涙はこらえることをせず、とても素直に流すようになった気がします。

おかげで5分とおかずぼろぼろ涙を流しながら読書や観賞をしてたりすることも。
(端から見たら相当アレげな光景だろうなと思います^^;)

まあね。自分のこころが感じたものを圧し殺さず素直に表現するって人間にとってとても大切なことだと思うしね。
それになんか、最近自分に流れる涙は、忘れてはいけない大切なことに目を向けるよう、魂が導いてくれているような気がしてならないんですよ。

いまの自分は意識のモードがよく切り替わり、こころの在りようも物事の捉え方も感じ方も、その時々で文字通り別人のように変わる状態にあります。
しかし、物事の捉え方も感じ方も全然違う状態の中にあっても、不思議とこの涙だけは共通してたりするんですよね。

なんつーか、自分でも自覚しないままいつの間にか流れ出していたりするので、表層的な意識(自分を感じているところ)を超えた、より深いところからこみあがってくる感覚に思えるんですわ。
しかも、この深いところにあるこころの琴線を刺激するのって、考えてみると決まってあるテーマが根底にあるように感じてます。

一言で言うのは難しいですが、人の暖かさや優しいこころに触れた時だとか、人のこころとこころが触れあった瞬間だとか、人と人、人と命、人ともの、人と世界が繋がりあった、そんな感覚を覚えた時と言えばいいでしょうか。
(更に言えば存在と存在がこころを介して繋がる時、がより正確なような気がします)

自分自身、繋がりの中から切り離され、意識がとことん孤独の底へと堕ちていく、そんな病を経てきたので、余計にそういったものが響いてくるのかもしれません。


まあでも、社会的な動物である人間、そして地球という1つの生命の物語の歴史の中に存在している人間として考えると、こういった繋がりに共鳴するこの感覚って悪いものではない…どころかとても大事なことだと思います。

意識やこころはたまに自分を偽り嘘をつき自分自身を見失わせますが、この涙だけはいつでも、見失ってはいけない大事なことを教えてくれ、進むべき道を改めて示してくれている。

そう、言うなれば私のこころの羅針盤みたいなものでしょうか。

今後、自分が選択していく人生においても、道に迷うことはまだまだただあるでしょうが、常にこの羅針盤を大切に、指し示す方向をしっかりと見つめて歩いていきたいと考えています。

紡いでいく物語にも、この羅針盤が示してくれているものをしっかり書き込んでいきたいな。

そういう物語を紡げるだけの感覚や技量、表現力や文章力もこれからもっともっと磨いていかなければなりません。

いままでの自分の技量じゃ、表現しきることもきちんと伝えきることも到底できそうにないですからねー。

そういう意味でも、もっともっと成熟せにゃな。

未熟を熟する道のりは、まだまだ始まったばかりです。

連なりの中の自分の役割 [うつが教えてくれたもの]

いまの自分の役割ってなんだろう。

たまに、そんなことを考えます。


この自然界に無駄なものなど何一つないように、人間、どんな人にだってその時その場所で為すべきことや役割があります。

自分のいまの年齢、体験、想い、気質、今まで出会った人、モノ、生命、思想、受け取ってきた様々なもの…

まだまだ不安も恐怖も欠点も未熟さもたくさんあります。
未来も見えないことだらけです。

でも、色々なものが連なっていまの自分を作り上げているように、この世界の明日へと続く無限に近い連なりの中に、還せるものはなんだろうか、還すべきものはなんだろうか、そう、意識するようになってきました。


人の体験や喜び、苦しみ、悩み、想いはみんな個人に閉じたものです。
でもそこから得た何かを連なりの中に還すならば、それは明日の世界を形作る糧となります。

そして、正も負もひっくるめて様々自分に連なってくるものの中から、何を得るか何を還していくかはその人自身の意識でいくらでも変わるんですよね。

この社会の中で生きる人間として、この世界の中に存在する生命として、わたしはいままでの人生から何を得て、次の連なりの中に何を還していけるだろう、何を還していきたいのだろう、それをこころに問うています。
たぶん、三十代半ばを過ぎて、社会を担う世代、次代を育てる親の世代となっている自分が、人生のいまの時期に与えられている役割って、本来そういうところにあるのではないかなあ、と。
生命の連なりの大きなの循環の中で見た時、この年齢ってそういう役割を果たすものではないかと、そう思うのです。


はじめの問いも、今まで、自分を中心に人それぞれの個人的な役割を考えてしまっていたのですが、なんかそれだと途中で行き詰まるというか苦しくなるというか、とにかくこうだと思ってもなんかこころに根付かなかったんです。

でも、実はもっと大きな循環の中での役割が本来あって、その上で自分が何をしていくか考えなければいけないんじゃないかって思うようになってから、なんかだいぶこころ穏やかに問いに向かえるようになった気がします。

たぶん、元々物事を深く難しく考える性質のあるわたしにとっては、これがこころにすっと落ちる1つの真実の形だったんでしょうね。


まあ、現実の自分は未熟で色々問題も多く、到底大きな役割を果たすには至っておらず、 個人的な役割にもまだたどり着いて すらいない半端者なのですが、こう思って一歩一歩先へ進んでいけば、いつかは年齢にふさわしく成長できるのではないかと思います。


昔は到底そうは思えなかったですが(いや、いまでも思えない意識の時は結構ありますが^^;)、 苦しみってありがたいですね。

自分の至らないところ、未熟な意識、周囲を取り巻く問題の構造や関係性の歪みなど…色々なものを見せてくれます。


いまのわたしにとっては、病気はわたしにこういう様々なことに気付かすために、魂がもたらしたものに思えてます。

病気の様々な経験を乗り越えなければ、苦しみの背景深くにあるものなんて考えもしなかったし、また見えもしなかった、それは紛れもない事実です。

だとしたら、ここで魂が気付かせてくれたことを糧にして自分を成熟させ、そこから少しでも未来の連なりの中へと還していくものを見つけることーーその先にこそ、自分の本当の役割が見えてくるのでしょう。

それにたどり着いた時にこそ、この病気を本当に克服したと、そう言えるのかもしれません。

その日を目指して、他の誰でもないわたしの道を苦しみ楽しみながら歩んでいきたい、いまはそう、思うのです。

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