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【心の闇の探求】第三章-7 [心の闇の探求]


 今回から週一、日曜日に移動しての更新です。原稿そのものはあるので、なるべく未更新がないように頑張っていきたいと思います。

 しかし、改めて読み返してみると、昔の自分凄いわ! 今回記述されているアイデンティティ論とかはまさに今、自分が活動している中で言いたかったことをずばり指摘してくれちゃってる!!(笑) この頃から追い続けている問題の本質は変わってないってことなんだなぁ、と改めて思いました^^

 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その7を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-7 -

第二節 闇に惹かれるものたち

第二項 自らの中にある闇

 我々が《心の闇》を身近なものとして感じるようになってきてしまった背景として、近代化が引き起こした経済的繁栄と教育の普及が存在する。第一章で見たように二十世紀において新しい殺人の形態が大量に現れてきたことと、この《心の闇》を我々が認識してしまうことの間にはやはり時代背景的な関連があるのである。

 産業革命以後出現してきた大量生産技術は、我々に対してもはや日々の糧を心配しなくてもいいような状況をもたらした。一昔前とは違い、我々はもはや金さえあれば日々の暮らしに困ることはなく、食料やその他の生活必需品も近くのコンビニエンスストアに行けば簡単に手に入るようになっている。そこには日々の生活の糧を得るために窮窮とするような状況は既になく、そこに回していたパワーを他に向けられるだけの余裕が出てくることとなったのは言うまでもないだろう。

 このような経済的繁栄は我々にある種の余裕と余暇をもたらした。C・ウィルソンは余暇は「何時でも性」を考える余裕を我々に与えることになったと述べていたが、まさにそのように我々には生活のためだけに全精力を傾ける時代を脱し(これはとりもなおさず今の後進国の状況であると言える)、それ以外の様々なことに力を注げる時代へと脱皮したのである。このことは先進国と呼ばれる国の状況を見てもらえば一目瞭然であるが、まず一つ、このような余裕が《心の闇》の認知に一役買っていることがまず言えるだろう。

 あえて言葉を重ねて説明するまでもないかもしれないが、以前は自分の身の回りの事を越えて娯楽や様々な学問へ精力を注げる人々はほんの一握りしかいなかった。国を支えている名もなき人々のほとんどは日々の暮らしを維持するだけで精一杯だったのであり、知識の探究や芸術を生み出す、思索に耽る等のことをするのはそのような余裕のあるほんの一握りの人間だったのである。このことは教育の普及度や識字率などを見てみてもよく分かる。

 よく知られているように、様々な社会で識字率が80%を越えるような高い水準に到達したのは近代化が為された19,20世紀以降の出来事である。それまでの時代においてはほとんどの人は字すら読むことはできず、従ってまた教育――学問というものにも触れてはいなかった。現在日本のような一億総中流の意識でもって全ての国民に一様に最低限の教育を施すような時代は未だかつて存在しなかったのであり、このことはもっとよく考察せしめられなければならない。

 当然のこととして、教育というものは様々なものに対する知識を増やすということである。知るということは自らの地平を広げるということだ。ものを知り、考え方を知ればそれだけ自分の視野が広がり、選択の幅が広がる。様々なことを違った側面から捉えることが可能になり、同時にそれだけ違った価値観が生まれてくることになる。知るということはそれ自体、悪いことではないが、ものを知らなかった時とはまた違った新たなる悩みをもまた、我々にもたらす危険があることは知っておかなければならない。

 先に自己の概念について知ってしまったものは何かとその「自己」という問題に躓きやすくなることを述べたことがあったが、それと同じようにある概念について知るということは、その概念にまつわって出現してくる様々な問題も一緒に抱え込むということなのである。もちろん、それについての概念を知らない場合にも、同様の問題に引っかかることはある。自己の概念について知らなくても、自分はなんのためにいるんだろうと引っかかることはあろう。だが、それは明らかに問題の「深さ」が違ってくるのであり、この場合、当然のこととしてその「なんのために」は外的な事実と結びついてくる。ここでの解決はおそらく仕事を貰うとか何かの役割が見つけだせれば訪れる。それに対してそれが「自己」の概念の側から来た悩みであったのなら、そのような外的事実だけではもはや解決は訪れなくなってしまっているのである。つまり、同じようにそこで何らかの役割を得られたのであったとしても、それを越えて自分というものの中にはそのような役割は一体何の意味があるのだろうという次元まで容易に転化してしまうからである。

 つまり、それについての悩みの度が、知っている状態ではより深くなることもあるのである。これは表面的なこと、単なる外的な事実だけを問題にするのではなく、自分の思考の内部にある概念についても問題にするようになるからである。キルケゴールの絶望の規定では自分が絶望の状態に無知であることから出発して、その概念を知っていくに従ってより深い絶望が訪れているように描いてあったが*16、まさにそのように自分の内的事実まで問題にしなければならない状況は、ただ単にある出来事について悩むだけとは違った苦悶をその者にもたらしていくのである。

*16 Lionel Dahmer,A Father's Story,Morrow,1994,p.212




 ここから、学問的に無知であった古来の大衆より、教育が整備された近代社会での大衆の方がより《心の闇》というものに気付きやすくなる理由の第一が出現してくる。知識を得ることはそれだけ、自分の中に新たな悩みを抱え込むことにもまた繋がってくるのである。

 このような背景の元にまず《心の闇》が現代の脅威として現れてくる土壌が出現する。だが、おそらくそれをもっと身近な危険として促進しているのは、現代日本でもよく問題とされているアイデンティティの希薄化であろうと思われる。

 近代社会がもたらしたもう一つの傾向として、人口の密集する都市空間の形成がある。これは同時に共同体の崩壊とも無縁ではなく、互いに薄い関係性しか持たず、ほとんど行きずりの人間関係ともいえる関係が都市においては顕著であることが、有識者によってよく指摘されている。そこでは親密な他者関係はもはや失われ、精神的に「孤立」するような状況がまた多くなっているのは言うまでもない。

 また、それに加え日本的な管理型システム社会の持つ抑圧――間庭が指摘しているように、個々人の能力が代替可能な歯車としてのみ機能し、その場所にいるのが「自分」である必然性が全く感じられない状況や、合理的なシステムの中に非合理な共同態的因習を持ち込んで人々に全人格的な同調を強いる吸引装置として働くこと*17などが作用し、自己の同一性――アイデンティティが希薄化していることがよく言われている。前にも述べたとおり、自己同一性(アイデンティティ)の感覚は自分が生き生きとした生命的存在として実在しているという認識とともに、他者関係の重要さ――社会や世界と一体性を持っているという認識が必要となる。現代の日本社会はこのどちらもうまく感じられなくなってきているのである。

*17 ついでにもう一つ言ってしまえば、それに気付くことになった一部の人にあっても、先達の助けを借りてそれと対決できるだけの土壌は整っていたと考えられる。これは、古代より様々な所で表現されてきた善と悪についての議論を見てみれば分かるだろう。




 自分自身が何であるか分からない、本当の自分は別にいると感じてしまうアイデンティティの希薄化は、おそらく前節で述べた個人的な目標を持てない現状も関係してきているものだろう。そこでは目標にぶつかってとん挫するような挫折としてある自意識のぼやけではなく、はじめからどのように自己を構築していけばいいのかが常にぼやけている状況がある。挫折によって傷ついた自意識を回復するためにその挫折の元になり、抑圧の元となっている社会に向けて衝動を爆発させるということがアメリカの殺人者の根底にあるメカニズムだとよく言われているが、その場合は自分が在るべきものとしての目標がまずあった。それが自分の現状とマッチしていない場合は野心と呼んでも差し支えないものであろうが、それでも自己を支えるものとしてアイデンティティの構築に一役をかっているものである。日本ではそれすらもぼやけてしまっているような現状がある。*18

*18 ただし、絶望の度が深くなるということはそれだけ真理――救済により近づいた状態であることは注意されねばならない。無知であることはその分苦悶のレベルを小さくしてくれるものであるが、その分「知る」ことによって訪れる新たな地平の豊かさは得られないのであるから。




 このようなアイデンティティの希薄化は一体何をもたらすのか。これは様々な問題が指摘されてきているが、さしあたってここでは次のような事が考えられる。それは「何が本当の自分であるかが分からない状況は、それを何とかして見つけようとする力動をもたらすものである」だろうということだ。

 自己がしっかりとして感じられている者にとってはそれ以上、自分は何かという問題にはかかずりあわなくてもすむものである。時にはそこに引っかかることはあろうとも――これは例えばその目標がとん挫したとき、自己の将来に不安を感じたときなどに現れてくる――、自らそれを探求していかなければならない差し迫った緊迫感はない。だが、自分がぼやけてしまっている人――自己のアイデンティティが希薄な者はそれとは違い、自分は何であるのかという問題ははるかに差し迫った問題である。

 すなわち自分の内に外に自己の存在の探求を行い、自分が生き生きとして存在する証を得たいと望むのであり、それがない限りにおいて自分が生きる意味さえも失ってしまう現実が訪れるのである。これが例えば現代において発達してきた「自己」概念の洗礼を受けていない人であれば、おそらくここまで問題は危機的にならないだろう。そこにおいては自己の存在する証ははるかにたやすく外部の出来事と結びつくことができ、また自己にまつわる形で生きる意味など問いはしないだろうからである。だが、ここにおいてはその探求は急務であり、通常であればしなくてもいいその探求をあえてしなければいけないということはそれだけ、自分の中にある闇の部分に気付く危険も出てくるということである。

 これは明らかにそうだろう。先に述べたように我々も内部においては殺人者と同じ《心の闇》を多かれ少なかれ抱えていることは確かなのである。そこにおいて普段それを見ずにすまされていたのは、一つはそれを外部にある力として転化して語られてきていること、そしてもう一つは敢えてそこに踏み込まなくても、自分自身として感じられる自分がまずはっきりとしてあったからである。このどちらもが浮遊しているかない場合、当然のこととしてそこに踏み込んでいかなければいけない状況も生じてくる。考えてみるとすぐに分かることだが、私の中にある「闇」も、また「私」には違いないものとしてそこにあるのである。しかも、周囲の現実の中にある自己を感じさせない力動とは違い、明らかに自分のアイデンティティのよりどころともなりうる強力なものである。何故ならばそのような残酷さや悪へと向かう傾向というものは、それ自身悪いこととして社会から価値が与えら れているが故に、はるかに自分を規定するものとして感じやすいものであるからである。例えそれが自分を深淵の縁に導く諸刃の剣であるにしても、その「悪」であるものだけは自分の中に確固として存在するのだから。

 このアイデンティティの希薄化とそれを探し求めるプロセスの内に、自らのうちに存在する《心の闇》にふと気付き、向かい合ってしまう可能性が現代日本ではより高くなっているという理由の第二が存在することはこれで明らかだろう。現代の日本の社会には「悪」を外部からのあがらわなければいけない衝動だとして転化できうる宗教的倫理観も、自分の存在を確固として感じられるような個人的な価値観の創出も、ともに十分なものとして与えられていないところがある。このような中においては、普段は秘密の戸棚の中に閉じこめている自らの中の闇と向かい合う可能性はより高くなるし、向かい合った先それを自分のものとして抱え込んでしまうこともまた、多々起こらざるをえないのである。

(第三章-8へ続く)


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