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【心の闇の探求】第三章-5 [心の闇の探求]


 なんとか予定通り更新です。こっちよりも『遙かなる~』とか『贄神』の方がやばいのですが、なかなか書く精神状態になれなくてT^T もうちょっと気合い入れて頑張りますので気を長くしてお待ち頂けますと幸いです。
 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その5を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-5 -

第二節 闇に惹かれるものたち

 今まで本論においては、《心の闇》というものを殺人者の心の内実に引きつけて語ってきた。それは、このような闇を見事に体現してきているのが現代の無動機殺人者であり、その内面に沿った考察こそ、闇を理解するにたるものだったからである。だが、そこにおいてはこのような《心の闇》が果たして我々に普遍としてあるものなのか、それともある種普通でない者が落ち込む罠として存在するものなのか、あえて問うてきてはいなかった。というのもニルセンも述べていた通り、このような「闇」が自分の中に存在することを人は認めたがらぬものであるし、そのような心理的抵抗を抜きにして無動機殺人者の世界に触れてもらいたいという思惑があったからである。

 だが、ここにおいてはそのような《心の闇》が殺人者の心にのみある「異常」なものではなく、我々の中にもありえるむしろありふれたものであることを示していかなければならない。《心の闇》とそこから発する「悪」へと向かう衝動――この二つが限りなく不透明に、我々の中にはあってはいけないものだとする風潮が現代の中においては大きすぎるような気がする。これは、犯行を必要以上にセンセーショナルにして犯人が異常者であるとして騒ぎ立てたり、彼らの《心の闇》はなんだったのかと喧々囂々として問いかけていく報道メディアの様子を見てもそうである。そこには彼らの心を問いかけていくことはするが、ふと立ち返って我々の心を問いかけることは全くなく、むしろ切り離して考えるのが常である。

 しかし、これは果たして切り離して考えられるものなのであろうか。我々が清廉潔白、一片の曇りもなくまっさらな状態であるのであれば、或いはそれも可能だろう。だが、現実にそのようなことはあり得ない。聖人君子でもない限り、我々は心の中に常にある種のやましさを――闇の部分を抱えている。これは自分の今までを振り返ってみれば、どのような人でもさほど難しくはなく発見できる事実だろう。これがある限りにおいて、彼らの心と我々の心、これを切り離して考えることは無条件にはできなくなる。だが、世間の風潮としてはここを問いかけることはしてこなかった。彼らは彼らとして、我々はそれとは違う「普通の」人としてきた。何故ならば、我々はあのような事は絶対にしないし、どう考えても我々の中にあるそれとは「質」が違う、とたいていの人は思うからである。

 「質」が違う――はたしてこれはそうだろうか。これを考えるには通常あるように彼らの側からのみ考えていたのでは片手落ちになる。「普通」とされている我々の側からそのような考察を進めて行かなくては、本当のところは理解できない。もしもニルセンの言うことが本当なのだとすれば人間は「自分自身の邪悪な面を思い出させるものすべてを毛嫌いする」のであり、そのようなものを正にありありと呼び覚ます彼らの《心の闇》は、我々にとって決して認められないものだからである。このようなことを踏まえ、次項においてはまず、我々にあって深く彼らにコミットしてしまう心性について語っていくことにしよう。この節において我々が彼らと「質」の違う闇を抱えているのではなく、むしろ同種の「闇」の中にいるのであり、なんら変わりのない心性を持っていることを示す。

 なお、何故ここでこのような事を強調するかというと、前節の最後でも触れたとおり、まさにこの事が彼ら無動機殺人者を生み出し、そしてまた、我々の中から無動機殺人者へ向かう者が出てくる温床の一つともなっているからである。これもこの節で併せて論じるが、現代においては《心の闇》に我々が気づく可能性が過去に類を見ないほど高くなっている。そのような中においてそれを外に出せずに心の中に抑圧せざるをえない状況こそ、明らかに前に述べたメカニズムによって闇の自己たろうと欲する者を生み出していく事にもつながっているのである。これを打開するには我々が――我々の社会が持つ、形骸化した価値観を有形無形に押しつけるという歪みをどこかで是正していかなければならない。これにはまず、我々が《心の闇》についてより本質的な理解を示し、(我々の中にもそれがあるということも含めて)素直な目で見、過度の抑圧とならないようにそれを認めていくことがなされないといけないのである。その意味で、今の時代はこの闇が自分の外にある彼らのものであるとするのではなく、我々にもそのようなものはあるのだという事実に改めて気づくことが肝要なのだ。いささか先走ってはいるが、我々にも彼らと同じ心理構造があるのであれば、これらは絶対に為されなければならないものであるのである。




第一項 殺人者の中の「わたし」

 『夢の中』に宮崎の元に来たという手紙の来信要旨がまとめてある部分がある。*10ここでまず驚かされるのは、その表現の中に彼に寄り添う形のもの――「助けてあげたい」といったようなものが数多く見られるということである。数百通に及ぶ手紙の中から宮崎が自分で選んで要旨をつくっているので、自分にとって都合のいい、気を引いたもののみが選ばれている可能性が高いが、それを差し引いてみてみたとしても彼に手紙を出した人の少なくない部分がこのような想いを抱えていることは否定できない。

*10 長谷川伸『日本敵討ち異相 下巻』(埼玉福祉会 1985)pp.292~348




 その中の一部を取り上げてみると、90年4月5日女性9「好きになるにつれて宮崎さんのことを理解したいという思いが強くなった。助けてあげたい。抱かれたい。」、同4月6日女性10「同情から始まった恋だけど、こんなに人を好きになってうれしさを感じたのは初めて。」、同5月10日女性13「あなたが心配で何かしたかったの。不審に思わず受けとって下さい。」など、いずれも一方的な想いではあるものの、不思議なくらい強く観入するものがそこにはある。このような傾向は女性により多いのだが、男性の場合、自分も何らかの罪を犯しているという、「同じ立場」という観入の仕方を多く為している。また、「あなたはかっこいい!!」(89年8月16日頃 不明)や「宮崎さんは本当は優しい人なんだ」(同8月30日 女性1)ともなると、自分の中のある種のものを、宮崎の存在に対して投影している感覚が垣間見えてくる。

 これは例えば2000年に事件を起こした少年の多くに、酒鬼薔薇聖斗がある種のブラックヒーローとしてあったということに通じるものもあるかもしれない。酒鬼薔薇にしても悪名高いアドルフ・ヒトラーに非常に感銘を受けており、行為の善悪はともかくとして、我々を強く惹きつけるものがそこには存在している。このことは、ロックスターやアイドルの追っかけよろしく、殺人者たる彼らに対してもしばし「追っかけ」がつくという事実によっても補完される。

 連続殺人犯テッド・バンディの公判には、毎回数多くの女性ファンが詰めかけたことで有名である。彼はまさしくその「女性」を食い物としてきた殺人者であるが、一度捕まりその行為が明るみに出ると、その彼に強く惹かれる者たちが続出したのである。彼女らは彼に愛情を切り売りし、ついにはとある立派な地位にいる婦人が裁判中のバンディと結婚し、彼の子どもを宿すまでにいたる。バンディはもともと甘いマスクを売りにしていた殺人者であったが、そうでなくても有名になった連続殺人者にはまず例外なくこのような「追っかけ」がつく。ちょうど宮崎への手紙の中で彼を「好きになってしまった」と強く訴えかける者がいたように、このような殺人者たちはある種のスターとして存在することが多いのである。

 今、獄中での結婚という話が出たが、これは何もアメリカだけの特殊事情でなく、日本においても起こっている。本論でも幾度か触れてきた、連続射殺魔の永山則夫がそうである。彼はまさにこのように、手紙をくれた女性と獄中から結婚を果たしている。彼ら殺人者がどうしてだか我々の心にこのように強く作用することは、もはや疑いがないだろう。

 この魅力の元はどこから来るのか。それにはB・マスターズの言う代替行為――我々が自分自身の中の悪魔を認識するかわりに、それを呵責なくおおっぴらに語れる対象として彼らがあることが、無関係でないように思える。我々は無意識的に彼らに投影することで自分の闇を語り、そうすることで抑圧を解消していく。我々の中にはそのような傾向が程度の差こそあれ存在するからこそ、彼らは話題として取りざたされるのであり、強く我々を惹きつけることになるのである。だが、このことを言うにはもう少し、我々の中にあるそのような心について考察しなければならない。

 スタンリー・ミルグラムの行ったある有名な実験を見ると、まさに我々の中に潜む残酷な心がはっきりと分かる。彼は第二次世界大戦中のナチスドイツの行動――ユダヤ人虐殺に見られる残虐な行為が多く“正常な”人間によって実際に行われていた――によく現れている、人間が命令に盲従する傾向を調べるために次のような実験を行った。

 自分が一人の人間に苦痛を与えていることをはっきりと知っていながらどこまで命令に従うか、どの段階で良心が介入してきて命令への服従を拒否するかを調べるこの実験は、参加志願者にたいし学習に際する罰の効果を確かめる実験だと説明し、マジックミラーの向こう側に座っている「学習者」に対して電気ショックを与える「教師」の役目を任せることになる。その「学習者」は幾つかの言葉を暗記することになっており、彼が間違えるたびに段々と強いショックを与えることを指示しておくのである。「教師」たる彼らは自分が本当の被験者であることを知らない。本当は「学習者」には電気は流れず、「教師」が選んで流した電流のレベルに合わせて役者が苦痛や恐怖を演ずることをする。七五ボルトでぶつぶつ不平を言い、二八五ボルトでは苦痛の声をあげ、四五〇ボルトでは息も絶え絶えになるといった風に役者は演じ、「教師」には今の自分の選択がどのような効果を及ぼしたのかをその目で確認しながら次なるショックを与えることを迫られる。

 はたして、この結果はぞっとするようなものだった。「教師」たちの三分の二が大半の指示に従い、その多くが既に激しい苦痛に耐えている男を見ていながら最大電圧の四五〇ボルトを加えたのである。更に、心臓が弱く、この実験を受けることが不安であると訴える「学習者」に対しても、四十人中二十六人の「教師」たちが最大の電圧を加えている。一五〇ボルトを過ぎた段階でもうやめてほしいと懇願し、さらに電圧が上げられると心臓の異常を訴えたにも関わらず、である。

 ここには命令に服従することを越えた、明白な心性が見て取れる。即ち、我々の中に潜む残酷な心である。絶対に服従しなければならないという差し迫った状況でなかったにも関わらず、このように苦しんでいる者に対し、“正常な”人間であるところの被験者たちが多く更に鞭打つことをやってのけたのは、我々がそのような心を有しているのでなければ全く説明がつかないものである。ここで重要なのは戦時中と同じく、この実験においてはその「罰」を与える大義名分が(したがってまた、自分の中にあるそのような行為を愉しむ部分を解放する大義名分が)明らかに与えられていたことにある。そこには良心を押し殺したことに苦しむ部分ももちろん見られてはいたが、このような状況下におけるそれは、きわめて弱いものだったのである。*11

*11 間庭充幸『現代犯罪の深層と文化』(世界思想社 1994)pp.42~43




 ここにおいて、そこに見られる邪悪な心性が、我々全員の中にしばしば思いもかけない形で隠れ潜んでいるものだということを認めるのは、もはややぶさかではないだろう。そのような心性を一番に発揮させうるのは当然のこととして戦争行為にあるのだろうが、我々の中にも人の命を奪う――いやそこまで行かなくても他人の苦痛を明らかに愉しむ部分は明らかに潜んでいるのである。

(第三章-6へ続く)


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