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【心の闇の探求】第三章-4 [心の闇の探求]


 今年ものっけから大きく調子を崩して穴開けてしまいました……まだまだ正常化するにはほど遠いなあ…orz
 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その4を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-4 -

第一節 現代社会と無動機殺人者

(第二項 現代日本の殺人観)

 先に日本の場合、「悪いことが何故悪いのか、それを示す部分が浮遊してしまっている」と述べた。先に見たような欧米などとは違い、国家的な倫理観を示す絶対的な基準がないからであろうと思われるが、これは最近ますますもって顕著になってきているように思える。酒鬼薔薇の事件が起こった後、ある若者が「何故人を殺してはいけないのか」とテレビの討論番組で問いかけたが、その言葉がふと出てくるまでにその部分が揺らいでいる。最近でも『文藝春秋』で「何故人を殺してはいけないかと子どもから聞かれたとき、どう答えるべきか」などという特集が組まれていたりもしたが、まさにこれらにも象徴的に見られるように、日本という国の中において、「殺人」を悪いこととする絶対的な基準が摩耗してきているのは確かであると言えるだろう。*9

*9 「14人が答える『なぜ人を殺してはいけないのか』と子供に聞かれたら――「子供の愚問」では済まない時代に親はどうする?」,『文藝春秋』,78(14)[2000.11]pp.166~190




 このような状況にあっては先ほど見た欧米の殺人観とは違い、「何故悪いこと」なのかの何故が共有されていないという浮遊した殺人観が生じてくる。しかしながら大人たち――社会は先ほど見た近代化のアナウンスと同じく「人を殺してはいけないこと」をのみ、アナウンスして押しつけてくるのである。法律で悪いことと決まっているからというのは、全くもって理由とならないことは分かるだろう。法律は時と場合によって移り変わるものであり、そもそも絶対的な基準としてあるものではないからである。それは、例えば日本における最後の伝統的な敵討ちとして長谷川伸が『日本敵討ち紀行』の中で位置づけた臼井六郎の敵討ちを見てもよく分かる。*10

*10 長谷川伸『日本敵討ち異相 下巻』(埼玉福祉会 1985)pp.292~348




 明治初年に起こったこの敵討ちは、幕末の攘夷と開国の争いで騒然としてた状況下で両親をテロリストに殺された秋月藩(福岡県)の臼井六郎が、明治維新後に東京の裁判所判事となっていたテロリスト主犯一ノ瀬直久を探し出して敵を討ったというものである。というのも江戸時代において、敵討ちは武士の当然の義務として制度的に存在していたものであり、父親が殺されて犯人が逃げてしまったときなど敵討ちを願い出て敵を討つことが社会的な風習としてあった。この場合、敵討ちを願い出た者は、復習に成功して相手の首をとって帰ったなら復職がかなうが、相手が発見できず敵が討てない場合にはいつまでたっても復職することはできない。だが、許容される殺人として「敵討ち」というものが確かにあり、この臼井六郎の事件にしても、もしも情勢が変わらずもっと前の時代であったならばおそらく「敵討ち」として許容されていたものであっただろう。しかしながら、明治の世の中にあっては殺人はおしなべて違法でとなっており、その中では、彼は殺人者として裁かれざるをえなかったのである。

 このように、法律のみを絶対的な基準として考えることは出来ないだろう。その背後にはまず倫理観であるところの「悪」があり、それに則って法律が考えられているという順番が本来の形だと考えられるからである。例えば昔の日本であれば「悪」たる基準は共同体との関係の中で規定され、共同体に対し仇なす行為は「悪」として排除された。間庭は日本人の「罪」の意識が「恥の文化」や「死生観」にも因っていた事を指摘し、そこに欧米との違いを見ている。*11ここから日本に特有の「死んで世間にお詫びする」などという行為がでてくるのであり、これはとりもなおさず「罪」や「悪」が共同体たる世間と深く結びついており、それを清算することが重要であることを示しているものであるという。

*11 間庭充幸『現代犯罪の深層と文化』(世界思想社 1994)pp.42~43




 しかしながら今の日本にはそれがない。日本的な共同体が高度成長と都市化とともに崩壊している現状においては、先に見られたような共同体的な「悪」の基準としてあったものを喪失してしまうということが起こっている。まがりなりにもあったであろうそのような基準を失ってしまうということは、「悪いこと」が何故悪いか、それを完全に浮遊させてしまう状況をもたらす。しかしながら、それが悪いことであるということだけは、やはり押しつけているのである。

 何故を共有せずにある、このような倫理規定は、「悪」に対してそれを認めない、単純に拒否するものとなっているのは言うまでもないだろう。何故ならばその根幹にある「何故」が共有されていないということは、その「悪」に対して体系的な考え方が存在しないことになり、従ってまたその「悪」に対する考察もここでは為され得ないものになるからである。ここにおいては、それを自分の内に抱え込まなければいけない状況が出現してくる。つまりその転嫁するものとしての「悪」がそもそも何であるか、それが浮遊してしまっているのであり、ここでは前述のように外部にあるものとして「悪」を語ることはもはや出来なくなってしまっているからである。

 この中において、《心の闇》からなおも目を逸らしていられる者は幸いである。自らの責任として「悪」を抱え込むというある種の地獄へ迷い込まなくてもいいのだからである。だが、これがふとそこに目を向けてしまった者となると話は全く異なってくる。前述したように、そこではもはや自分の「外部」にあるものとして《心の闇》を見なすことは難しくなり、それを自らの内に「耐えられない」ものとして嫌悪しつつも抱えていかなければならなくなるのである。これは、自分の中に存在する何故悪いのかという基準たる倫理観が、全体的に与えられにくくなっている若者世代になればなるほど顕著になってくると考えられる。ここで、周りがそれを認め、そのような心があることを正常なことだとして、その上でそれとつき合っていく術を探すようにと促してくれるのであれば、そこにはまだ救われるものはある。いやむしろ、ちょうど芸術家や哲学者などが長い長い歴史をかけて行ってきたように、そのようにつき合っていく術を探す事にしか救いの道はないといっても過言ではないだろう。

 しかしながら、ここにおいてはそのようなことも起こり得ないのである。周囲はそれを「悪いこと」だとして、理由も分からず(これは、少なくとも闇へと向かっている本人にとってはそうである)否認し、さらには異常であるとして描き、排除していこうとする。これは凶悪な事件がすぐに「精神鑑定」に持ち込まれ、精神異常であるかないかが焦点となる裁判の様相や、異常な犯罪者を描いたサイコホラーものが大衆に歓迎をもって迎え入れられている現実を見ればよく分かることだろう。

 このような状況下にある者が、その自分のものとして感じざるを得ないところの《心の闇》をどこに持っていけばいいというのだろうか。もしもそれを外に出してしまったのなら、有形無形の圧力として加えられている世間の潮流の中において、「異常」であるとして認知されてしまう。例えその現実に無知であり、一度はそれを外に出そうと試みても、ちょうど酒鬼薔薇が友人に「お前、おかしいのと違うか?」と言われて非常にショックを受けたように、その現実に気づくやいなや二度と外には出すまいと思うだろう。ここではもはやその《心の闇》を自分の中に抱え込み、檻の中に入れて外に出ないよう見張っているしか術はなくなるのである。真実向かい合い、飼い慣らしていくものとしてその《心の闇》があるのではなく、認められない、無条件に排除していかなければいけないものとしてそのような《心の闇》は存在してしまうことになる。

 だが、これは明らかに問題となるべき事である。というのも前に述べたように自己とは「綜合」としてあるものであり、自らの内にある全てのものは、その綜合たる関係の一部を為しているものだからである。本性的に見るのであれば、例え《心の闇》であったとしても、自己の内に存在する以上それは明らかに自己の一部であり、その《自己》とそれを嫌悪する「自己」、どちらも十分に有したままで〈綜合たる自己〉でなくては本当の自己足り得ない。一歩進んで自らの中に「悪」を認めるということは、本来であればこの地平に到達しなければならないものであろう。だが、ここにおいては事態は全く逆方向――《心の闇》は在ってはならないものだとして押しつけられてくるのであり、それが《心の闇》が自らの内にあると気付いてしまった者を《絶望して、自己であろうと欲する》状態まで押し上げるものとして働いてくるのである。

 これが理解されれば、同時に「透明な存在」としての《自己》が生み出す事になるのもよく分かる。先に述べたように、社会が、周囲がアナウンスするところにおいて、「闇へと向かう心」は絶対に認められないものである。にもかかわらずそれは自分の外部のものとは転嫁できず、明らかに自分のものとして向かい合うしかないものなのである。この二律背反性が心の大奥にある秘密の自己、「悲しいことに今までに自分の名で人から呼ばれたこともない」透明な存在を生み出す。これはとりもなおさず自己の一部として自己自身が規定しているものであり、それ故に表面的なにせ自己以外の自己のフェイズに対し、この「透明な存在」という感覚はおしなべて強く訴えかけるものとなるのである。

ここには前項において触れた他者の「こうであれ」という眼差しがあまりにも強すぎるために、かえって自己の存在を押し隠すしかなくなる力動とまったくもって同じものが現れる。一つは自分の将来や生活について、一つは倫理観が浮遊しているにも関わらず押しつけられる「悪いこと」という概念について、対象となっているものは違ってはいても、全く同じ日本社会の歪みが現れていることが分かるだろう。すなわち、既に意味のなくなったものを、それでも形骸化したままに押しつけていき、新しい段階に到達させないという歪みである。これが理解されない限りにおいて日本社会の中に酒鬼薔薇のような犯罪が発生しなくなることはない。いや、酒鬼薔薇たちが我々より「一歩先に進んだ」者、新しい段階に到達しつつあるのだがそこへの到達を疎外された者として現れているのであれば、これからますますもって無動機殺人者は出現してくることになるだろう。そのような危機感の中に我々は立たなくてはならない。

 だが、本当に無動機殺人者は我々より「一歩先に進んだ」者として現れているのだろうか。この事はキルケゴールの絶望の最高形態――《絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗》の状態に彼らが在ることを示すことによって既に一部論証されているものではあるが、我々の側に彼らのような《心の闇》が決して少なくなく存在していることを示していかなければ十分なものにはならないだろう。そこで、次節においては我々の側から《心の闇》を見ていこう。ここにおいて、我々の到達する可能性のあるものとして、「無動機殺人者」の地平が横たわっていることがより実感のあるものとして分かってくることだろう。

(第三章-5へ続く)


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