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【心の闇の探求】第三章-3 [心の闇の探求]


 更新かまけている間に年が明けて2011年になってしまいましたorz
 今年もぼちぼち更新していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その3を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-3 -

第一節 現代社会と無動機殺人者

(第一項 透明な存在であり続けるボク)

 酒鬼薔薇の言う「透明な存在」に多くの若者が共感したのも、そのような他者によって措定される実感が強くあったからであろう。そこでは若者が「本当の自分」探しのために多く悩む力学が存在しており、それが犯罪化の根底にもあると考えることができる。事実、今までの研究においてはそこが多く指摘されている。これはこれとして確かに真実であろう。

 しかしながら、そうとのみ捉えていたのであっては、大事な点を見逃してしまっているのもまた事実である。第二章で述べた無動機殺人の力学を理解した今となっては、この「本当の自分」とは一体何かについて問題にされなくてはならない。というのも酒鬼薔薇にとって、「透明な存在」とは「自分が犯人をイメージして書いた」ことば――すなわち、闇へと向かう《自己》たるものが発した叫びに他ならないからである。そこで外へと表す前に、他者の視線によって規定されてしまっているものが、他ならぬ《自己》――自らの内に巣くう悪へと向かう衝動を体現した自己なのである。

 もちろん、このことばに「共感」した若者が全てこのような《自己》を抱えて苦しんでいるなどと言うつもりはない。いや、通常のように自己のイメージがぼやけ、本当の自分は別にいると感じている若者のほうがむしろ多いだろう。だが、第二章で述べたような《絶望して、自己自身であろうと欲する絶望》の状態として彼ら無動機殺人者が在るのであれば、我々より「一歩先んじた」彼らの問題は、そのまま我々の地平の先に出現してくる可能性の高いものとして在るのである。*5

*5 ここで考えている問題が、そのままキルケゴールの絶望の構造と相似形であることは非常に示唆的である。同じ「透明な存在」の「本当の自分探し」であると言っても、非本来的な絶望と自己自身であろうと欲する絶望に見られるような本質的違いが在るのである。即ち、自己の外部にそれは訪れるのか、それとも内部に訪れるのかということである。




 このことの是非は第二節において詳述するが、まさにこのような状態にあるのであれば、当然のこととして「本当の自分」探しの意義も大いに異なってくることは言うまでもないだろう。我々のほとんどが「本当の自分は別にいる」と自分の外側に別の自分を捜していく地平にいるのであるが、無動機殺人者の「本当の自分」はそのまま自分の内部に存在するものを言っており、いわば直接的に内部にあるものとの向き合い方を問うているのである。

 このような自分の内面にあるものに対して、うまく付き合っていくことが出来たとすれば、それはおそらく犯罪――殺人として出現はしてこないものである。無動機殺人者は「自殺」として人を殺すのであり、闇へと向かう《自己》とそれを厭う「自己」との葛藤のうちにこのような「自殺」への道が開かれるのは既に見た通りである。もしも綜合たる自己がうまく統合されてあれば、決してこの「自殺」はなされないであろうことは容易に想像がつく。

 しかしながら、ここにはまさにその、その向き合い方を掴めない現実が存在するのである。それは多く、このような《自己》に対する無理解――個人的にも社会的にも――から訪れているものであるが、それが「透明な存在」たる《自己》を存在させることになっていくのであり、そこにこそ無動機殺人者を生み出す温床がある。それを次項において見ておこう。




第二項 現代日本の殺人観

 自らの内にある闇へと向かう衝動が、明らかに別の自己――闇へと向かう自己として独立に「透明な存在」として在る。そのようなことが起こる背後には、今の日本社会が持つ殺人観が大きく関係してくる。まず初めに確認しておきたいことは、現代の日本社会の中において、殺人とは一体どのような位置を占めているかということである。

 刑法においては明確に殺人というものは規定されているが、これほど殺人や猟奇物がもてはやされている昨今、日本人の中で果たして「殺人」というものがどのように位置づけられているかを規定するのは難しい。殺人が認められない行為であることは確かであるとしても、ある種の寛大さでもってそれが我々のすぐ側に存在していることを許容してしまっているような印象もまた存在するからである。だが、ここにおいて1つだけ言える事があるとするならば、それは今の日本の中においてあるような「殺人観」には明確な倫理性が欠けているのではないか、という事である。これは日々様々に与えられる殺人をモチーフにしたフィクションやノンフィクション物の娯楽や犯罪報道のあり方にもよく現れているものであるが、殺人と倫理が明白に結びついていないものが日本の殺人観の中にはあるように思える。つまり、「殺人」が悪いことであるとし、それを教え込むような社会通念はあるが、その悪いことが何故悪いのか、それを示す部分が浮遊してしまっているのである。

 これが例えば欧米などのキリスト教圏の文化を持つ社会であれば、このような事は起こらないのではないかと思われる。あるいは、仏教国などでもそうだろう。そこでは「人を殺すなかれ」という倫理規定が存在し、それが悪いことであるという事を宗教が、教義が、教えてくれる。このような状況下では例え社会内に殺人やそれに類する物をモチーフとした娯楽が広がったところで、(それはそれで問題となるところはあるが)背景としてある倫理観は簡単には揺るぎはしない。人殺しが何故悪いかというその何故が共有される形でしっかりと存在しており、それを元にして行動できる。即ちそれは「悪」であり、その「悪」に対していかにして立ち向かってきたか、それが根底に与えられる。それらの宗教的倫理観では、「悪」は外部にある何か悪い力動として考えることによって自らの心に救済――闇を持っているという事実に対するある種の免罪符を与える事をしていく。それ故に自分の中にそのような傾向が在ることを直視しようとはむしろせず、それを外から来る抗いがたい衝動として、反抗という形で表すのである。キリスト教徒が悪魔について如何に多くの神学論争を繰り広げてきたか、演劇などにおいて如何に多くこれらの悪魔をモチーフとして語られてきたかを見ても、それは分ってくるだろう。

 その倫理観が残っている限りにおいて、「悪」は自らの内部よりも外部から来るものとしてより考えやすい。何故ならばそのように考えることによって我々の内部にある直視したくない影を、より客観的なものとして考えられるからであり、そこにおいては自分の責は免れ得るからである。我々は自分が無関係な噂話にはいくらでもコミットすることが出来る。それは「対岸の火事」であり、自分は無関係な野次馬でいられるからである。だが、一旦それを自分の側に引き寄せてしまうと、もはやその関係性に絡め取られて無責任な立場でいることは出来なくなる。もしも道が二つあったとして、片方が無責任な野次馬へ、もう片方が責任をとらなくてはいけない当事者へと続くとしたら、我々の大半は野次馬への道を選ぶだろう。ちょうど本論の序でも引用した殺人鬼デニス・ニルセンの言葉にもあるように「自分自身の邪悪な面を思い出させるものをすべて毛嫌いする」ことによって自分を守っているのであり、また「普通に見られる反応は、一般受けのする独善的避難のほとばしりではあるが、それと同時に、事件の細部について、繰り返し友人や知人たちとうれしそうに語ることである」というような反応をすることによって、自分の内部にあるものから無意識的に目をそらすと言うことをやってのけるのである。

 ブライアン・マスターズはこのような行為を「悪魔の存在を認識するかわりの代替行為の一つである」*6として、次のように語っている。

*6 ここで言う「悪魔」は先ほど著者が述べた宗教的な外部にある悪魔とは違い、むしろ自分の内部にある魔物という意味で使われていることに注意すべきである。




哲学の専門家でもないかぎり、自分の影についてじっくり考えるなどということはだれもしたがらないものだし、そのしたくないという気持ちの根底にあるのは恐怖心である。われわれは自分の中にある悪魔を恐れている。というのは、ひとたびこの悪魔の欲求に気づき、それに耳を傾けたとき、それを制する能力が自分にあるかどうか疑っているからである。だからこそ、そうした悪魔的な力について、あたかもそれが自分の外にあって客観的に見ることができるかのように語るほうが容易なのである。というのも、それがより身近なところにひそんでいるとは想像できないからである。パブやクラブや夕食の席で、最近起こった恐ろしい殺人事件について延々と語り合ったりするのは、この悪魔の存在を認識するかわりの代替行為の一つである。実際にはわれわれは、偽装された内省、自分自身にもわからないように偽装された内省への逃げ道として、また一つ新たに起こった殺人事件を歓迎しているのである。*7

*7 B・マスターズ『人はなぜ悪をなすのか』(森秀明/訳 草思社 2000)p.29




 ここには「悪」たるものを己の外部にあるものと捉えようとする力学が描かれている。我々にとって自分の心中に「悪」があると言うことは耐えられないことであり、それ故にそれを直視しないよう、自分でも在ることに気づかないよう、偽装する。哲学の専門家でもない限り、自分が「責任を負う」内部の悪に引きつけて闇を直視する者はいないものであり、哲学の専門家のようなそれでも直視する者は、それがそのような地平にあるものだということを理解しつつ敢えて踏み込んでいく。いわば彼は自らの内部で「悪」と対決すべく準備してそこに入っていったのであり、この場合は無動機殺人者のような「弱き自殺者」の力学はより働きにくくなる。

 というのもこのように覚悟の上で入ったのだとすれば、弱き自殺者の前提たる「耐えきれない過度の生活」として向き合うことはより少なく、幾度も難関に突き当たるとしても、それを撃ち破ることに力を注げるからである。また、このような場合、「悪」との「対決」としてそこには在るため、そのような「悪」たろうと自ら望むことは通常あり得ないだろう。

 むしろ、怖いのは本来なら「偽装して」見ないでいるはずの者たちが、徒に迷い込んでしまった場合である。その場合、この人外魔境に分け入るだけの準備などもちろんしているわけもなく、自らの内部の「悪」は、まさにマスターズも述べていたような耐えきれない受難として存在する。しかも、一旦内部にあると認識してしまった以上、「外部」から来たものであると再び転嫁することも容易でなく、その闇の中に彷徨う事になってしまうのである。*8

*8 このような傾向は外部にある力として「悪」を認識する欧米よりも、それが浮遊している日本において更に顕著になっている事は言うまでもない。




 ここにはまさに、無動機殺人者の「絶望」と、「耐えきれない過度の生活」の芽が見られてくる。それを受け入れるだけの準備がきちんと成される前に、その心を自らの中に認めてしまうところに、無動機殺人者となるまず第一歩が存在しているのである。しかもこの傾向は、今の日本においてはより身近に起こるものとして顕著になってきているのである。これは今まで述べてきたような宗教的倫理観によって「自己の内部にあるものと気付かないように偽装」しやすい欧米と違い、日本においてはそれがより「偽装」しにくいからであるのだが、それを次に語っていくことにしよう。

(第三章-4へ続く)


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