公私ともにいろいろどたばたして、前回から少し間が空いてしまいました。
どうも本格的にうつの解剖考察を進めていくための心の余裕も時間的な余裕もまだなさそうなので、今回は過去のノートから、生の声を届けてみます。
うつを体験したことのある人なら多くの人が多かれ少なかれ身に覚えがあると思いますが、うつの猛威に晒されて深い精神の闇の中で苦しみもがいている時、「死」という考えを弄ぶことが多々あります。
未来に希望を全く見いだせず、この苦しみが永遠に続くようにしか思えなくなっている時、そこから解放され、楽になるための「死」という解決策を求めるのです。
一度その考えに取り憑かれてしまうと、常に頭のどこかにその事がへばり付き、救いとしての「死」に身を浸す自分を何度も何度も夢見ます。
ただ、そうは思ってもうつの深淵で苦しみもがいている時は、エネルギーは枯渇し、身体は動かず、救いである「死」を実行することすらできません。
むしろうつで本当に自殺の危険が高いのは少し良くなってうつの深淵から頭を出すことが出来た時、行動することができるようになってきた時だったりします(これは臨床医学的にも良く知られている事実です)。
「自殺」というのは「他殺」と同じく、実はとてつもないエネルギーがいる訳です。
なぜ「死」にあれほど魅力と救いを見いだすようになってしまうのか、なぜそれを実行できないのか、なぜ未来というものに希望を持てなくなってしまうのか、等々についてはまたそれぞれ深く掘り下げていこうと思いますが、とりあえずここでは常に「死」という考えを頭に抱きつつ、絶望にまみれているしかなかった日々に綴った、一篇の詩をご紹介したいと思います。
(正確にはほんの少し状態が良くなり言葉という概念を操ることができるようになった時に、その時の自分を表現した詩になります。うつの深淵にあっては言葉や思考というのはまず初めに奪われて自由にならなくなりますので。言霊使いとして言葉で表現することにアイデンティティの一部がある自分はまたそれがショックだったりしましたが、それはまた別の話^^;)
死ぬことすら出来ない自分は
死ぬということは難しい
特にある種の人にとっては
死を実行するというのは想像を絶するほど困難だ
心はいつも死へとむかっているというのに
生きていても何一つ意味は無いと思い詰めてしまうほどに絶望の中に囚われているというのに
最後の一線を越えられない
頭の中ではもう何回も何十回も何百回も
何千回、何万回、何億回に至るまで
自分を殺すことを繰り返してきたというのに
死んだ後、それを処理する家族の顔や多くの人にかける迷惑事
そして何より後に遺る見られたくない自らの恥部が頭の中を駆け巡り
ただでさえ枯渇している気力を萎えさせる
実行した瞬間の痛みや苦しみへの恐怖や
万が一死にきれなかった場合に訪れるだろうより一層の地獄を想像しては
何回も何十回も何百回も何千回も
何万、何億、何京回に至るまで
自分を本当に殺めることに踏み出せない
死ぬことができる人は幸いだ
この現実のくびきから自由になることができるから
絶望の中にあってなお、死に踏み出せるだけの「強さ」を持っている人は素晴らしい
「死」を選ぶことで自分を解放することができるから
横になって天井を見つめたまままんじりともせず
死ぬことも生きることもできずに苦しみ日々を浪費し続ける私は
いったいどうすればいいのだろう――
いったいどうしたらいいのだろう――