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【心の闇の探求】第三章-9 [心の闇の探求]


 またまたかなりご無沙汰してしまってすみませんorz
 あかんなあ・・・なかなか調子が安定しない・・・。あと少しですし、この後はなんとか最後まで息切れせずに行きたいところですが・・・頑張ろう。

 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その9を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-9 -

第三節 闇への分かれ道

(第一項 「死」へと向かうもの)

 闇へと向かう心は即ち、自分の中にある悪への衝動――もっと限定すれば自分の中にある残酷な行為を愉しむ能力のことである。そのようなものが自分の中にあるだけであるならまだ耐えられる。大抵の人はそれを感じることはあっても、あくまで傾向としてであり、実際の残酷な行為にしても自らが行うところまではいかない。ヴァーチャルな代替行為として与えられた「死」を愉しむことはあっても、実際の行為は肉体的・精神的暴力として噴出するのが常であろう。

 だが、それが生命を直接に扱うことになると次元が1つ違ってくる。実際体験として生命を扱ったとき――これは、多くタブーとして存在する――に感じる愉悦までもが自分の中に確固としてあることを認めざるを得なくなった場合、そこには何が生じてくるのであろうか。はたしてこれは、そのような「傾向」ではなく実際に残酷な行為を愉しむ能力が確固として、(しかも、人よりもはるかに大きいものとして)自分の中にあることを突きつけられるに等しいものである。自分がその行為を愉しめる、愉しんでいるというある種忌まわしい事実とともに、そのようなことをする力――その愉しみを引き起こす力をもまた手に入れたことになるのだから。

 このような行為が引き起こす「死」がまた、我々の中にある残酷な行為を愉しむ能力を最大限に活性化させることは言うまでもないことだろう。我々が考える「悪」の方向へそのような行為が一番合致しているからであり、また、他の存在の苦しみのはるか先に連なるものとしてそのような「死」があるからである。

 その意味で、彼らは「死」に惹きつけられた者だったといえる。「何故、僕が人間の死に対して、この様に興味を持ったかということについて話しますが」、この言葉で始まる酒鬼薔薇の供述調書の一文が実際にこのことをよく表している。




(前略)僕自身、家族のことは、別に何とも思っていないものの、僕にとってお祖母ちゃんだけは大事な存在でした。

ところが、僕が小学生の頃に、そのお祖母ちゃんが死んでしまったのです。

僕からお祖母ちゃんを奪い取ったものは死というものであり、ぼくにとって、死とはいったい何なのかという疑問が湧いてきたのです。

そのため、「死とは何か」ということをどうしても知りたくなり、別の機会で話したように、最初は、ナメクジやカエルを殺したり、その後は猫を殺したりしていたものの、猫を殺すのに飽きて、中学校に入った頃からは、人間の死に興味が出てきて、人間はどうやったら死ぬのか、死んでいく時の様子はどうなのか、殺している時の気持ちはどうなのか、といったことを頭の中で妄想するようになっていったのです。*23

*23 例えば福島章「さかきばら少年の精神医学」(『犯罪と非行』114巻[1997.11])を見てみるといい。




 酒鬼薔薇が大事な存在であった祖母の死を境にして、「死」というものに如何に惹きつけられていったか、ここではそれが語られている。非常に淡々と語っている感じだが、「死」と結びついた《心の闇》が如何に切り離せない強力な力動として育っていくものかは窺えるだろう。彼にとって初めは小さなこだわりとしてあったもの――「死」と自らの中の悪へと向かう衝動を結びつけたことにより、彼自身漠然としてあった悪へと向かう衝動を完全に自分自身のものとして感じざるをえなくなったのである。*24

*24 これは、必ずしも人の死に限らない。「死」というもの全般に対する結びつきであれば同等のもの――生命に対する直接的な力の行使があるのであり、そこではここで述べることと同等の力学が働くことは言うまでもないことである。後で述べるとおり酒鬼薔薇は祖母の死をきっかけにして「死」というもの全般に強く惹きつけられていったのであり、それは彼が「自殺としての他殺」へ向かうある種無視できない要因として存在するのである。




また、宮崎においてもこれは同様である。祖父の死が重要な契機となったことは前にも述べたが、彼はおじいさんの死について「おじいさんは実際のところ死んだのか見えなくなったのか分からない」といい、その考えに基づいて「死」というものをやはり探求していくのである。その独自の死の観念の中においては、死んだのではなく「見えなくなった」のであれば「肉物体」を送ることによって「よみがえらせる」ことができるとする。*25が、この送らなければいけない「肉物体」自体、何か他の生命の「死」によって作られた残り滓としてある。初めは死んだおじいさんの骨として、次にはあちこちから集めた小動物などの死骸として、そして最後は自ら死をもたらした幼女の肉体としてその肉物体は存在し、おじいさんを「よみがえらせる」という観点から、やはり「死」というものを自らの闇と結びつけて追求していくのである。

*25 「少年A 犯罪の全貌」『文藝春秋』[1998.3]p.144(「平成九年七月十三日付供述調書」)




 併せて考えるならば、『夢の中』に掲載されている芹沢と山崎の対談の中で彼らが宮崎の犯罪を捉えて「生命犯罪」だと言っていたことも象徴的である。そこにおいては「生命そのものを動かすことを神にかわっておれがやるんだ」という表現で、宮崎が生命を直接に扱おうとしていたことを述べている。*26このような「生命」を扱う行為が、同等のものとして「死」を支配することに直接繋がっていることはここで言うまでもないことだろう。豊川の少年が「人を殺す体験をしてみたかった」と言っているように、死の瞬間――つまり「死」というものに対する一種の探求がそこにはあり、それが自らの闇と結びつくことで相乗的に「自殺としての他殺」へと向かっていくのである。それが、闇と向き合って後踏みとどまれる者とそうでない者のまず大きな違いであろう。

*26 彼がこの「闇へと向かう心」を完全に認識していたであろうプロセスは第二章において語ったものである。50ページを参照されたし。





第二項 心の闇と向き合うコト

 自分の中の残酷な心にそれを否定する余地もなく気付き、それと向き合ってしまうこと。これが無動機殺人者を無動機殺人者たらしめるまず第一歩としてある。そして、それはその闇の心が「死」というものと明白に結びつき、それを直接に扱えることを認識することでますますもって大きくなる。しかしながら、それが真に自己を「自殺」へと追い込むためには、おそらくもう一つ大きな鍵がある。

 すなわちその《心の闇》がどの程度の抑圧でもって本人の中に存在するかということである。先に酒鬼薔薇がこのような心を如何に厭うべき、外には出せないものとして、自らの秘密の部分に抱え込んでいたかは述べてきた。まさにこのように、自ら抱え込んで外へと出さないようにすることは、それだけ自身のある部分を押さえ込んで押し殺す抑圧構造として働く。*27この抑圧が閉塞されたものとしてそこにあることは明白であろう。

*27 宮崎勤,前掲書,pp.58,103~104




 前にも述べたように、今の日本社会では何故悪いのかの何故が浮遊し、きちんとした体系的説明もないままに「悪」へと向かう心の否定をしていく状況にある。そこにおいてはその「心」を外に出すことはすなわち自分を異常者としてレッテル付けすることにも繋がり、容易に自分自身の中に秘めたものとして、外に――他人の目に触れるところで表れてこないように厳重に鍵をかけた檻の中に幽閉して見張っていくことに通じてくる。これは、自らの性向を述べたり、作品として表したりした酒鬼薔薇が、「異常」であるとして友人に、先生に、位置づけられた事から見てもよく分かるだろう。ここで残された選択肢は、そのまま「異常」である状態に社会の中で位置づけられながらも、そのような心を押し隠さずにいくか、それとも表面的には目立たなく<いい子>の仮面をかぶり、その大奥にそのような心をしまって外へと出さずにすましていくかのどちらかしかない。それを持つことすなわち異常であるという風潮が余りにも広がってしまっているために、その抑圧は全く外部への通風口が存在しない、閉塞されたものとして生じてしまうのである。

 もしここで生き物の血を見ることが大好きで、苦しんでいる姿を見るとゾクゾクと悦びを感じると述べたとしたら、それこそ「異常」のレッテルを貼られてしまうのは確実だろう。即刻精神病院へ行って検査を受けさせられるか、それとも遠巻きにあることないこと尾ひれをつけた噂を広められ、普通でないことを宣伝されるかのどちらかであろうと容易に予想できる。そこまであからさまではなくても、例えば「殺人」に対して興味を持っている、色々な事件に対しどうしても興味を持って惹きつけられてしまうとなれば、それだけで「普通ではない」とされていく。前にも述べたとおり、自分の中にも一過性のものとしてそのような「事件」や「殺人」を大いに語るものはあるにもかかわらず、である。

 おそらくそれが自分達のごとくに一過性の発散としてあって、《心の闇》からは目を逸らしていくのが「普通」なものとしてあるのだろう。だが、現代においてはそのような《心の闇》にたいし、気付き直視し惹きつけられてしまう者は確実に少なくない数存在する。そのような者にとってはこのような社会の風潮は、確実に自らを抑圧する――自らの中にあるそのような「闇へと向かう部分」を表には出さないように隠蔽するものであることもまた、真であるのである。

 話を戻すが、もしもここで自分の中の悪へと向かう衝動が、完全なる閉塞的抑圧として存在しているのでないならば、それはおそらく救われうるものである。というのもそれを自分の中に疑いようもなく在るものとして認識してしまった後も、なおもそれを認め、それと対決していく場であり術であるものが残っているからである。おそらくこれらの場は古来より学問や芸術、信仰の場に在ったものであり、そこでは「悪」という名を借りた「闇へと向かう衝動」に対し、世間一般とは違いおおっぴらに語ることが許されてきた。ここでこのように「殺人」について語っていても、少なくともこの場においては世間一般よりも許容度が高いものがある。内容云々はともかくとして、それを語ることは許されているのである。

 あるいはこれらの事も、そのような悪へと向かう衝動をある種自分の外側にあるものとして目を逸らして考えさせることに一役買っているものであるのかもしれない。自分自身の中にそのようなものが在ることを例え絶望と共に認めざるをえないとしても、それが自分だけの異常性――特殊なものではないと知ることができるのであれば、その闇ははるかに御しやすくなる。自分の中の異物として恐れ嫌悪しつつ相対するのではなく、恐れ嫌悪するのは同じであるにしても、より冷静に自分のものとしてある部分であることを受け入れる事が可能となるからである。そこには自分だけが孤立したものとしてその闇を抱えているのではなく、世界と、他人とある種繋がったところでそのような心性と対峙していく――そのような意味で自分を越えた外側にあるものだと考えることを可能にするものが確かにあるからである。

 しかし、今まで述べてきたような現実の状況はどうか。これはこのようなものとは全く正反対へと向かっており、そこには自分自身、その中にある《心の闇》を抑圧し異物として向き合って行くしかないものとして存在する。そう、言うなればこの「孤立」して――つまりは自分のみが異常者としてこの《心の闇》と対峙していかなければいけない状況、これこそが根本的なところで一番問題となるべくあるものであり、無動機殺人者及び潜在的無動機殺人者の多くは「孤立」して自らの闇と向き合わざるをえなかった者達なのである。

 彼らが精神的な自殺として「闇へと向かう衝動たる心の体現である自己」へと自らを重ね合わせることを選ぶのは、そのような自己が自分の中で抑圧の対象としてしか存在せず、それ故耐え難いものとして在ることにある。それが自らの内奥にひっそりとあり、普段意識をしなくてもすむのであればあるいはこれでも問題ないだろう。だが、それらは事在る毎に感じられるものとしてある。それは我々がそのような心を満足させて発散させるための娯楽を社会のいたるところに抱えているからであり、なおかつそれらの情報へとアクセスせずにすんでいた時代とは違い、今は情報過多――知った後に取捨選択をするように移り変わってきてしまっているからである。自分の中の闇から目を逸らし続けている人とは違い、一回自分の中にそのようなものを認めてしまった人にとっては、そこで「知る」ことがそのまま自分が閉じこめている「闇」の存在を感じることに直結する。ここではもはや後戻りをできない新たな地平にその者は置かれているわけであり、完全に忘れ去りでもしない限りそれを感じずに――考えずに済ますことは不可能なのである。このような傾向はそれが「死」と結びつくことによってはるかに大きく、またより頻繁に感じられるものになる。

 耐え難いものとして自らの中の「異物」であるのなら、それの部分の拡大はすなわち自己に対する明白な浸食である。それは自分の中の倫理観とも無関係ではないが、そのような意識でいる限り、自分の中で「闇」が感じられる度にその浸食は確実に進んでいく。人が「弱き自殺者」となるのはその浸食がとどめようもなくなったときであり、その時はもう自己の内をほとんど占領しているかのように居座る《心の闇》に対し、自分を同一化させることでそれと対峙する苦しみを打ち破ろうとするのである。ここにはあるいは抑圧されていた《心の闇》の明白な反乱――噴出の構造が見られるかもしれない。だが、自分がその耐え難いものを常に抱えてきた主体にとってみると、これは一種の勝利宣言にも等しいものとしてある。何故ならば、苦しんでいる部分を殺して耐え難いものと一体化するのであれば、それはそのまま今までの内部の葛藤に決着をつけたことに繋がるのだから。*28

*28 同pp.215~217




 ここにおいて、無動機殺人者は無動機殺人者として存在することになるのである。

(第三章-10へ続く)


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