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謹賀新年 [日記・雑感]

新年明けました。
おめでとうございます。

幸い、blogを書いていこうという想いをなくさず、胸に抱えて新しい年を向かえることができました。
去年は休息からのリハビリというかウォーミングアップみたいな年でしたが、再び潰れることなく2014年を迎えられたということで、今年は地固めを引き続き行いながら、少しずつ、無理のないペースで活動の幅を広げていこうと思ってます。

とりあえずはこの前ちこっと書いた『奏星記』の執筆と発表からかな。
近いうちにブログかどこかで第一段を載せていこうと思いますので、気が向いたら読んでやってくださいませ^^/

あと、今年はどっかのタイミングでFacebookの復帰もしてみようと思ってます。
時間の配分がうまくいくかは分からないんで、Twitterに関してはまだ先かな…

リアルに関しても少し顔出す場や活動自体を増やしていければいいなと思いますね。


新年、ということで、今年の目標というか、改めて人生の目標として力を入れていきたいことは以下。

「未来への道を創っていく」


自分の未来、苦しんでいる人たちの未来、子供たちの未来、人間の未来、生命の未来、地球の未来、宇宙の未来…

大風呂敷を広げることにはなりますが、やはり自分の本質は求道者なので、

生きるとはなんだろう、

存在するとはどういうことだろう、

この世界とそこに存在する凡てのためにいったい何ができるだろう…

といった、自分にとって関心のあるテーマをとことん突き詰めて物語っていきたいと思います。

自分も含めていまの社会の価値観や仕組みに馴染めずこぼれ落ち、人生に迷っていたり、自分自身の醜さや空虚さに苦しんでいる人たちのために、今とは違う未来へ繋がる道の可能性を物語っていくこと。

この世界が、そして人間や生命の未来がこの先一万年続くために、いまいったい何を考えて何を大切にしてどんな行動をしていかなければいけないか、それを見つけていきたいところ。

そして見つけたものは物語の中にこめて。

それをきちんと物語れるよう、表現することに関するスキルアップや自分自身を磨くこともやっていかなきゃいけないし、先は相当長い長い。

とはいえもう、こころを決めて歩き始めてしまったので、ゆっくりでも一歩ずつ、苦しんだり楽しんだりしながら歩んでいこうと思います。

今年は活動の幅を広げながら、疲弊せずに続けられるよう、自分にあった歩むペースを見出だしていく年になるのかな。


とりあえずそれを目指し、軸となるであろうこころの深淵の探究は、今年も続けていくことになるでしょう。
そこで得たあるいは喪ったあれこれは、またここで書いていくことになると思いますので、興味ある人がいたら時折覗いてみてください。
不定期ですが数日に一度ぐらいは更新していきたいところですな。うん。

つーこって、躁の私も、鬱の私も、今年もお付き合いどぞよろしく。
こころの深淵について、色々と教えてくださいね(笑)

世界は恐怖に満ちている [ことのは]

今年最後になりそうな更新は過去のノートをひっくり返していたら出てきた二つのことば。

人と関わることがとてつもなく恐怖になる病を癒すのは、しかし人との関わりの中にしかない――

そんな難しい命題を孕んだ、対照的な二つのことばです。

絶対に忘れてはいけないこの想い。
いま、改めてこれらのことばを噛み締めています。


--------
「世界は恐怖に満ちている」

人が怖い

心なく発せられる言葉が怖い
ぶしつけに浴びせられる視線が怖い

それらに何も他意はないとしても
私はそこに悪意を見る
想像の中の悪意に傷付けられる

そんな風に感じる自分の心が
そんな風に考えてしまう自分の意識が

誰よりも何よりも一番怖い

---------
「蜘蛛の糸」

思いもかけず人の優しさに触れた時
なぜだか心がじんわりした

諦めと虚しさの中に埋もれてしまった私の心
もう何も生きていく希望などないと思っていたのに

人のくれた優しさに
生きるということの意味を少し取り戻す

心の機微を喪ってしまった私にも
まだこうして感じられる心が残っていたのだと

じんわりと熱い目頭と共に実感する


人は人と関わってしか生きていけない
人は世界と関わらなければ生きていけない

そんな当たり前の現実を
改めて私に教えてくれた

失敗の向こう側 [ことのは]

傷つきやすいこころを守るため、失敗することを極度に恐れて生きてきた過去の自分に。
愛をこめて。

--------
失敗からしか
人は学ぶことができない

失敗ときちんと向き合った人だけが
本当に大切なことを得ることができる

数限りない失敗を積み重ねた上にこそ
豊かな人生は立ち顕れる

失敗することを怖れてもいい
失敗することで深く傷付いて倒れてもいい

目の前の現実から目を背けず
受け止めようとするこころを育てればそれでいい

その小さな積み重ねの先にこそ
自分を本当に救う道が見えてくる

世界が灰色に変わる時 [ことのは]

世界が灰色に見える時
僕の感情は色をなくす

色とりどりの華やかな感情は影を潜め

暗く重い感情の澱がまとわりつく


胃の奥底に圧し溜まる不快感

全身に重くのし掛かる息苦しさ


同じ景色のはずなのに

見える世界は冷たく色褪せて突き刺さる


世界が私を拒絶するのか

私が世界を拒絶するのか


存在することが針のむしろである現実に

この世界に重なりあって存在するもう1つの現実に

いったい何が

僕をずらしていくのだろう

感情汚染 [うつが教えてくれたもの]

前回の記事とも少し関連しますが、鬱の数ある嫌なことの1つに、好きだったはずのことが思い出すのも嫌なことに容易に転化してしまうしまうことがあります。

鬱の状態はただでさえ、幸せや楽しみを感じる感情が鈍磨し、全て悪い方の感情を呼び起こすフィルター越しに世界と向き合っている状態なのですが、それに加えて(それだからこそかな)、少しの失敗や心理的な抵抗が、対象への想いに悪感情を結びつけてしまうことがあるんですよね。

悪感情に汚染される、とでも言えばいいでしょうか。

普通、好きなことに思い巡らせたり向き合ったりした時には、好ましい感情や幸福感が湧いてきたり、楽しい気分になったり、パワーがみなぎってきたり、と気分が上昇するような反応が起きると思いますが、この逆に、嫌な記憶や感情が呼び覚まされたり、恥ずかしさが湧いてきたり、頭をかきむしりたくなる焦燥感に襲われたり、気分を陰鬱にする反応に繋がってしまうようになるという…。
負の感情に連なる関連連想が呼び覚まされてしまうわけです。

これは辛いですよ~。

そうはなったとしても、好きなものはやっぱり好きなわけです。
でも、好きなはずのことを考えたり触れたりすると途端に感情が掻き乱されて調子も悪くなってくる。
結果として、好きだったはずのことを心の底に封印して遠ざけていってしまう…

そうやって、いま尚なかなか触れられない「好きなもの」がどれだけ生まれてきたことか(T^T)

特に症状が行くところまで行ったこの数年間の反転っぷりはほんと、酷いものです。

自分の最悪の時期の苦しい記憶ともつれあってしまっていて、どうしてもそれを引っ張り出してしまうんですよね…。

それだけならまだしも、更にきついのはほんのちょっとしたきっかけで、それがいまの好ましいものと結び付いて、負の感情の汚染を広げてしまうこと。

鬱は負の感情と親和性が高いので、からだが鬱側にシフトしている時はそうやって汚染が進んでいく危険と常に隣り合わせだったりします(T^T)


ここ最近もやばかった。

ほんのちょっとした出来事から、危うくいま一番楽しみにしているものが、向き合うことすら嫌になるものに反転してしまうところでした。

まあ、これは好ましい方の感情の記憶がより広範囲で強かったので、危ういところで汚染は免れ得た感じで良かったですが。

いったん汚染が広がってしまうと、それを除去するのはほんと、掛け値なしに何百倍もの時間と労力が必要になってくるんですよね(苦笑)

いまではだいぶマシにはなりましたが、あれだけ好きだったPerfumeやスイバケも、ある時期の楽曲や映像はまだ抵抗あるもんなあ…(T^T)

ほんとうに、やっかい極まりありません。


好きなものとはこころの安定剤でも幸福を感じる源でも頑張るための原動力でもあるわけで、それをどんどん喪っていくというのは生きる力を奪われていくにひとしいと言っても過言でもなかったりしますからね。

鬱の人が死んだように生きるはめになってしまう数多くの原因の1つには、このようなメカニズムも強く関係しているかもしれません。


好きなことをきちんと好きだと感じられるーー

そんな当たり前のことがいかにありがたいものであるか、それをいま、噛み締めています。


鬱にならなければこんなこと、きっと気付きもしなかったなあ…

ほんと、病気はきちんと向き合えば、色々なことを教えてくれるもんですねw

せっかく機会を与えられたので、これからも一つ一つ、きちんと向き合って対話してみようと思います☆

こころの壁 [うつが教えてくれたもの]

最近こころのキャパシティが増えつつあるおかげか、ずっと長い間、自分の中の大きな壁として居座っていた問題に、ようやく向き合えつつあります。

なんというか、これを解決しないことには次のステップに進めないという、こころの現ステージのラスボスのような問題。

いまを締めくくり次へ向かうための、みそぎのようなものですな。

まあ、内容はありふれた対人関係の縺れなんですが、一番身近な存在かつ一番躁鬱が酷いときのものだったせいで、怒り不安恐怖怯え苦しさ…といった悪感情の色付けが凄いものになっているんですよね。

おかげで、それについて考えたり向き合おうとしたりするだけで、調子が悪くなったり悪い想像が止まらなくなったりエネルギーが奪われたり不安や恐怖がどんどん襲ってきて叫びだしたくなったり…と、鬱的な意識を呼び覚ましてもう散々な状態になるわけです(T^T)

今まで何度、向き合おうとはしてみたものの、結局苦しくなって先送りとか繰り返してきたことか…。

その時は今はまだ取り組むべき時期じゃないんだとかなんとか自分を誤魔化してはきましたが、ずっとこころの片隅に突き刺さったままじくじく膿み続けていたわけで、その事実がまたこころを痛め付けたりするからたちが悪い><

なんというか、記憶の中のささいなことを取り出しては、あれはきっと蔑んでいたにに違いないとかきっと今でも変わってないんだろうとか、自分の中の恐怖心をより強く呼び覚ますような想像が、ことあるごとに離れなくなったりするんですよね。

しかも、その苦い記憶をほんの少しでも連想するような出来事が現実であったなら、たちまち浮かび上がってこころを支配していく始末。
あまつさえ、そのいま起こったことすらその記憶に結びつけて、更に悪い想像を働かせていく…という、いまいる現実にも過去にも破滅的なサイクルが働いていくわけです。

いわば、自分のなかで悪いネタをせっせと探しては、自分の中にある問題を更にたち悪く強大なものにするためにせっせとこねくり回しているような状態ですね。

昔はそれに完全に飲み込まれて支配されてしまっていたので、冷静に分析などできずこんなことは分からなかったのですが、少しメタ的な意識が育ってきた今では、人間の意識や判断が如何に過去から培ってきた「感情を色付けした記憶」に強力に左右されているかが実感としてよく分かります。

どうも意識が何か認識したり判断したりするより先に、好悪の感情がまとわりついた色眼鏡を通して物事を見てしまっているみたいなんですよね。

意識に上がってきた段階でもう好悪の情報が付加されているので、必然的に偏った情報を前提として意識や判断もせざるをえず、しかもそれが偏っていることは入力情報のみで判断している限り、意識は検証することができない、という…。

普通の人でも、例えばちょっと嫌とか苦手意識がある人が、何かいいことを言ったり親切なことをしてくれたりしても、それを素直に受け入れることができず、なにか裏があると穿ってしまったり、近づいてくるだけで反射的に胸に何とも言えない不快感が沸いてきたり、冷静に対応できなくなったりすることはありますが、この反応こそまさにそれ。

逆にあばたもえくぼと言うように、好意的な対象に対しては、それがフラットなら少しどうかと思うようなことでも、全て好意的に捉えて良い方の側面を見ようとするーー

人間関係に限らず、どんな物事に対しても人間の判断は一事が万事こういう仕組みが動いているみたいなんです。

つまり、物事は多面的で、視点を変えれば良くも悪くも見える(もちろんそれ以外の側面もたくさんある)ものですが、ファーストインパクトで与えられる好悪のフィルターを通した情報で、良い面を見るか悪い側面を見るかが無意識的に決まってしまっているってこと。

感情の力は原初的で強いので、意識はどうしてもその影響を取り除くことはできないんですね。

そして、鬱はこの仕組みが暴走して、悪い側面のみを見るフィルターが付いた色眼鏡をかけて全ての出来事を捉えている状態。

だから普通の人だったら「どうしてそんな悲観的な捉え方をするの?」と思えるような悪い解釈を常にして、そこから生まれる不安や恐怖に苦しみ続けることになるんです。
#ちなみに躁はこの逆で、全て良い側面のみで捉える色眼鏡を常にかけ続けている状態です。
#これだけ聞くと凄く良いように感じるかもしれませんが、これはこれで問題が……

このことが分からないと、普通の人にはなぜ鬱の人がそんな風な捉え方や考え方をしているのかが理解できないし、鬱の人もなぜ自分がそんな風に考えてしまうのかが理解できないで苦しむことになります。
#そう、自分自身の状態に一番戸惑って「こんなはずじゃない」と思っているのは
#何よりも鬱の人自身だったりするんです。

ここから、自分を責めてしまったり、相手の反応にいらいらしたり、どう対応したら良いか分からないといったことも生まれるんだと思うんですよねー。

鬱は「本人のこころの弱さのせいで、意思や考え方でなんとかなる」という風に、こころのどこかで普通の思考ができる人は思いがちですが(そして本人の中の「普通の」意識は思いがちですが)、意思や考え方以前の段階の仕組みが既に暴走してしまっているので、こう考えても百害あって一利なしで、追い詰めるだけに終わります。

その状態をなんとかしたいと思うのなら、むしろその前の「悪い側面を捉えるフィルター」に働きかけて動きを鈍くするか(薬物療法)、そのフィルターを呼び出す大元となる記憶や呼び出される記憶にまとわりついた感情を別のものに変化させるか(心理療法)、その状態に襲われている自分に対して自分の中の「普通の意識」が下している認識が改まるか(内観による意識の変化)しないとだめなわけです。

最後がちょっと分かりづらいですが、自分の中に生まれる苦しみはたいてい、自分の中にある「普通の意識」が生み出しているものなので、その意識が自分の状態をどう理解し捉えるかで、苦しみの量を減らし別の折り合い方ができるようになります。

仕組み自体は人間であれば例外なく普通に備わった仕組みのため、薬物療法や心理療法だけでは、また別の状況がこの仕組みを動かした時、また暴走状態になる可能性は常にあります。
鬱が再発のリスクが常にあると言われるのは、まさにこのためだと思うんですよね。

なので、鬱を根本的に克服するためには、どうあっても「鬱の状態に陥った時の自分」に対する自分自身の意識が変わる必要があるのかな、と。

それが変わるだけで、意識は大分楽になるし、色々と考えたりする余裕も生まれてきますしね。

そしてその余裕があればこそ、自分の「鬱の状態」自体も軽減されていくループができるのだと思います。

なんか思わず熱くなって長々と語ってしまいましたが(ここにも例の感情判断の仕組みが働いていますよね^^;)、まあ、こういう側面から捉えることもできるんだということで、なにかの参考になれば幸いです。

ここを更に掘り下げたら、鬱に苦しむ人を苦しみから救う道もなにかしらか見えてくるかな?

このことは、少しずつでも深めていってみようと思います。

次のステップ [日記・雑感]

ブログ更新が随分と久しぶりになってしまいました。
11月から徐々に更新間隔が開きぎみになっていましたが、ブログを始めてから2度の躁鬱サイクルを抜けて、当初のモチベーションがかなり曖昧になっていることは否めません^^;

ここらで再度、仕切り直しをしておかないと、本当にずるずる更新しなくなってしまいそうなので、想いを新たに自分に活を入れて書きたいことを書いていこうと思います。

とりあえず、だいぶ更新する感覚も取り戻せてきたので、鬱や想うことの話題だけでなく、いまのこころの有り様を元に再度書き直しをしている小説の方も、そろそろ載せていきたいな。

ブログに直に載せるか、どこか別の小説投稿サイトに発表してリンクを載せる形にするかは分かりませんが、徐々にお目見えしていきたいところですね。

簡単に紹介すると、題名は『遥かなる星々の物語~ウェヌスの章~』改め『奏星記』。
登場人物や世界観はブログのリンクにあるやつと基本的には変わりませんが、キャラプロフィールとして発表した細かい設定などは少し変化しています。

この世界の全てを生み出した女神の住まう天を描く「楽園」、地球上にかつて存在した(或いはこれから存在する)高度な精神文明社会を描く「冥星」、そして等身大の現実社会を描く「地球」の3部構成で紡がれるファンタジーなのは前と変わらず。
もしかしたら舞台数はもっと増えるかもしれません(ぇ?
#まあ、こればっかりは言霊さんに聞いてみないと分かりませんが^^;

テーマは「生命の連なりと魂の成長」、ですかね。
育むこと、育てること、成長することーー苦しみが多いこの世界で、存在する意味はどこにあるのか、そして苦しみから解き放たれる道はどのようなものなのか、それを深める形になると思います。

まあ、いまの私が書くものなので、当然のことながら私自身の鬱の経験が散りばめられた痛々しいものになってくるのですが^^;、それぞれに問題を抱えながら、悩み、苦しみ、道を模索しながら生きる登場人物たちの姿をきちんと描いていけたらな、と思ってます。

自分で言うのもなんですが、読みごたえのあるものになる、はずです!

ただ、問題は、それを描ききるにはまだまだ私自身の技量や感覚が未熟なところにあるのですが、そればっかりは日々精進していくしかないですな^^;;

私のライフワークである「地球と生命と人間の物語」を描く、壮大なストーリーになるのは間違いないところ。
まだまだ冒頭部分を少ししか書き進められてはいませんが、どれだけのものになるか、自分でも予想がつかないです(ぉぃ

まあとりあえず、納得がいくまで精一杯物語を紡いでいってみようと思ってます。

私のなかに訪れてくる物語たちに少しでも命を吹き込んで、誰かに読んでもらえたら嬉しいところですねー。

楽しみにしてくれる人がいるかは分かりませんが、例え読んでくれる人が一人もいなくても、彼らと自分のために、次のステップとしてこれはやっていこうと思います。

普段の更新に交えて、これから徐々に発表していきますので、気が向いたらよろしければご一読ください☆

自分のこころのメトロノーム [うつが教えてくれたもの]

からだが冬を抜けて春に突入しているせいか、最近不安定気味で、少し躁の意識が出ていました。

意識が暴走気味にスピードアップして、からだの疲労をものともせず活動的になる、そんな感じ。

昔はその状態の意識こそ本当の自分だと思っていたりもしていたことがありましたが、今はある意味鬱以上に警戒すべき状態だと実感しています。

そのお陰か、こういう暴走気味の意識の時に、それに飲み込まれずに冷静に内観できる、メタ的な意識が育ってきたような気がします。

ここ数日、ちょっと歯止めが効きづらくなってきた感じでどうするべと思っていたんですが、まさにこの意識こそ、躁化している頭の中にある冷静なメタ的な自意識なんだと思います。

昔は躁である状態のもたらす気持ち良さに完全に飲み込まれて、その状態が異常であるかを相対化して観てみることなど思いもよりませんでしたからね。
思えばそれでかなり方々にご迷惑をおかけしたものです(苦笑)

そんなこんなで躁的な意識が強くなりそうなのをどうにかしたいなと思っていたお陰か、昼間、ビルの合間から見える青空に白く重層な雲が悠然と流れていくのを眺めながら歩いていたら、意識が平常のスピードにクロックダウンできたような感じがします^^

やっぱり空の表情を眺めたり雲の動きをゆったり眺めているのは好きですねー。
人間とは違う自然の時間の流れを感じて、こころが落ち着いてきます。

人間の時間はどんどんスピードアップしていて、ともすれば時間に使われがちで、こころにもからだにもリズムを無視した過負荷をかけっぱなしになっていますからね。
たまにはこういう自然本来のリズムで刻まれる時間にたゆたうのが、こころやからだに本来の生命のリズムを取り戻すのにいいのかもしれません。

私にとっては昔から空や雲(夜空よりは昼の空)、そして林が一番好きで落ち着く対象なんですが、人によってこれが海だったり山だったり川だったり花畑や花壇だったり草原だったり、それぞれあるんだと思います。
それも風景だったり音だったり、匂いや感触だったり、からだに浸透するリズムは千差万別。

おそらくは、自分の幼少の頃の安心に包まれた、心地好い落ち着いた時間の記憶と結び付いたものが、こころの源体験として自分の中のメトロノームになっているのではないかなと考えています。

もし、いま人間の時間で少し疲弊しているなと思う人がいたら、自分の中の生命のリズムを呼び覚ます自然のメトロノームを探して、その時間に浸ってみるといいかもしれません。
病気の状態まで陥る前に、ね☆


#本当は今回は躁がなぜ危険なのか書いていこうと思っていたのですが、書いているうちになんか違う流れになったので、そのテーマはまた今度ということで^^;

自分のこころのメトロノーム [うつが教えてくれたもの]

からだが冬を抜けて春に突入しているせいか、最近不安定気味で、少し躁の意識が出ていました。

意識が暴走気味にスピードアップして、からだの疲労をものともせず活動的になる、そんな感じ。

昔はその状態の意識こそ本当の自分だと思っていたりもしていたことがありましたが、今はある意味鬱以上に警戒すべき状態だと実感しています。

そのお陰か、こういう暴走気味の意識の時に、それに飲み込まれずに冷静に内観できる、メタ的な意識が育ってきたような気がします。

ここ数日、ちょっと歯止めが効きづらくなってきた感じでどうするべと思っていたんですが、まさにこの意識こそ、躁化している頭の中にある冷静なメタ的な自意識なんだと思います。

昔は躁である状態のもたらす気持ち良さに完全に飲み込まれて、その状態が異常であるかを相対化して観てみることなど思いもよりませんでしたからね。
思えばそれでかなり方々にご迷惑をおかけしたものです(苦笑)

そんなこんなで躁的な意識が強くなりそうなのをどうにかしたいなと思っていたお陰か、昼間、ビルの合間から見える青空に白く重層な雲が悠然と流れていくのを眺めながら歩いていたら、意識が平常のスピードにクロックダウンできたような感じがします^^

やっぱり空の表情を眺めたり雲の動きをゆったり眺めているのは好きですねー。
人間とは違う自然の時間の流れを感じて、こころが落ち着いてきます。

人間の時間はどんどんスピードアップしていて、ともすれば時間に使われがちで、こころにもからだにもリズムを無視した過負荷をかけっぱなしになっていますからね。
たまにはこういう自然本来のリズムで刻まれる時間にたゆたうのが、こころやからだに本来の生命のリズムを取り戻すのにいいのかもしれません。

私にとっては昔から空や雲(夜空よりは昼の空)、そして林が一番好きで落ち着く対象なんですが、人によってこれが海だったり山だったり川だったり花畑や花壇だったり草原だったり、それぞれあるんだと思います。
それも風景だったり音だったり、匂いや感触だったり、からだに浸透するリズムは千差万別。

おそらくは、自分の幼少の頃の安心に包まれた、心地好い落ち着いた時間の記憶と結び付いたものが、こころの源体験として自分の中のメトロノームになっているのではないかなと考えています。

もし、いま人間の時間で少し疲弊しているなと思う人がいたら、自分の中の生命のリズムを呼び覚ます自然のメトロノームを探して、その時間に浸ってみるといいかもしれません。
病気の状態まで陥る前に、ね☆


#本当は今回は躁がなぜ危険なのか書いていこうと思っていたのですが、書いているうちになんか違う流れになったので、そのテーマはまた今度ということで^^;

再利用いろいろ [ことのは]

過去ノート整理していたら、ちょっと書きかけて塩漬けにしたブログ原稿が幾つか出てきたので、せっかくだから再利用。

短いことばが多いですが、まあ集めればそれなりに見映えがするようになるかな?^^;
#いや、続きを書いていくのが決して面倒くさいとかいう訳ではなくて^^;;;

とはいえエッセンスというか、これが一番言いたかった、降ってきたことばが集まってるので、ちゃんと言霊はこもっていることを保証します。

これらを読んで、何か感じてくれたら嬉しいな☆

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『大切なのは…』

大切なのは自分の言葉で考えること

自分のうちから出ることば

--------
『色眼鏡』

自分が色眼鏡をかけているのに気付かなければ

決して目の前の花の本当の色は分からない


自分自身が見る現実がどれだけ歪んでいたとしても

それに気付くことはない

--------
『満たされない心』

満たされない奴は

どこへ行っても

何をしても

決して満たされることはないだろう


満たされない本当の原因は

自分のなかにこそ存在するのだから…

--------
『ままならなさの源流』

ままならない現実に直面すると

誰もが周りを変えようとする

周りに原因があると考える


本当は自分の内部に原因が存在するかもしれないのに

本気でそれを見ようとしない

その根の深さに気付けない…
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